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ロータス・ヨーロッパ、ポルシェ・ターボ、ランボルギーニ・ミウラ、ディノ、そしてカウンタック。
現在、30代後半から40代の方には特別な思いを感じる車両ではないだろうか。
70年代後半、少年達を熱狂させ、大きな盛り上がりを見せたスーパーカーブームを代表するクルマ達だ。
このブームのキッカケを作ったのはいうまでもなく、当時少年ジャンプに連載された「サーキットの狼」であり、その作者である池沢さとし(現在ペンネームを早人師に改名)氏であろう。
今、第三次スーパーカーブームと言われ始めている。
今回は池沢早人師氏にお話をうかがった。

高校3年で漫画家デビュー。

 物心ついた頃から漫画家になりたくて小・中・高とずっと漫画を描いていました。中学校の頃には漫画ばかり描いているんでさすがに親も心配して、漫画を描くことを反対されたことがあります。それでも押し入れに電燈を持ち込み、親の目を盗んで描き続けてましたね(笑)。高校の頃も漫画一筋で、クルマと女の子の話題しかない友人たちを冷ややかに見ながら作品を描くことに没頭してました。漫画家になったらクルマと女の子のネタが多いんですけどね(笑)。デビューするまでに50作品くらい描きましたか。
 高校3年の時に、新人漫画家の発掘に力を入れていた少年ジャンプで賞を取り、作品が掲載されたのが漫画家デビュー。卒業後、漫画家のアシスタントに入りましたが、その年の暮れには連載が決まって「あらし三匹」という漫画をスタートしたんです。

子供たちの輝く眼差しに。

 次に出会ったのがロータス・ヨーロッパ。そのとき入ったクルマのクラブを通じてフェラーリやポルシェなどの外車に乗っている人と知り合い、みんなで毎週のように伊豆や箱根にツーリングに行くようになって走ることの楽しさを知りました。レースにも興味が出てきてクルマに没頭していくんですよ。
 クルマ漫画の構想はその頃生まれました。クルマを走らせているとみんなの注目を集めるんですよ。特に子供たちは本当に目を輝かせているんですね。自分達を魅了するクルマはやはり他の人を魅了する。これは漫画になると思いました。しかも毎週走りに行く事がいろんなクルマの取材みたいなものでしたからね(笑)。
 編集者に「クルマの漫画を描きたい」と交渉しましたが、OKが出るまで時間がかかりました。僕自身、もう好きなものを描きたくて、それがだめだったら漫画家を辞めてもいいという位の決意で臨み、それで始まったのが「サーキットの狼」だったんです。当時、毎週読者の人気投票があり不人気だと連載を打ち切られるんです。幸い立ち上がりから人気が出て順調だったんですが、公道グランプリが始まった頃に人気とは別の理由で一度だけ連載打ちきりが決まったことがありました。週末に「あと2〜3回で終了です」といわれて。ところが月曜日に人気投票の速報で1位になったものですから、あわてて電話をかけてきて「連載続けてください!」(笑)。以後3年間人気トップを続けることができました。あの時打ち切られていたらスーパーカーブームはなかったかもしれませんね(笑)。

今の子供たちにクルマの魅力を伝えたい。

 僕はスーパーカーとは性能やスタイルだけではなく「人を魅了し、人が憧れる魅力を持った存在」だと思っています。今、第三次スーパーカーブームになりつつあって、また魅力に溢れた夢や憧れの存在が生まれています。500馬力オーバーなんてわくわくしますよ。さすがに500馬力レベルになると、そのままでは普通のドライバーの手にあまりますが、電子制御など進歩した技術の力を借りることによって、運転しやすく工夫されています。今のスーパーカーは「サーキットの狼」の時代の乗り手を選ぶじゃじゃ馬とは違って、普通のドライバーでも乗りやすいという間口の広さと安全性を備えた上で、スーパーカーとしての魅力に溢れていると思いますね。
 最近、若い人の中でクルマに興味を持つ人が減っているようですが、もう一度クルマのすばらしさを伝えていきたいと思っています。それには、やはり子供の時からクルマに憧れてくれるようなことが必要でしょう。「サーキットの狼」の当時、スーパーカーブームの中心だった層が現在40才前後で、その子供たちが小・中学生くらいだと思います。ですから、親子揃ってクルマに夢中になれる、そんなアイディアを考えていけたらいいですね。



フェアレディZで始まった車歴はこれまでに70台近い。その中でもフェラーリ、ポルシェ、ベンツはお気に入りでそれぞれ10数台乗り継いできた。「自分で所有して乗って、自分で確かめたいんですよ。たとえばいくらフェラーリが好きでも、それしか乗っていないのにその他のクルマを否定するというようなことはしたくありませんからね」。
池沢早人師(いけざわ・さとし)1950年生 千葉県出身

 1975〜79年、少年ジャンプに『サーキットの狼』を連載、スーパーカーブームを巻き起こした。その他作品多数。また、クルマ関係の執筆も多く、雑誌、専門誌、新聞の他『サーキットの送り狼』等の書籍も出版されている。ドライバー暦としては、1977年富士フレッシュマンレースにTSサニーでデビュー1、2戦と優勝、その後多くのレースで優勝、入賞多数。92年からはポルシェカレラカップに参戦、初代チャンピオン。94年から全日本GT選手権に参戦。
 
 
ツーリングがそのまま漫画の取材になっていたという頃(写真下)とブームのまっただ中で行なわれたスーパーカーレース(写真上)。どちらも漫画の1シーンのようだ。ちなみにスーパーカーレースで2番手の930ターボが池沢氏。「このあと第1ヘアピンでボーラをかわしてぶっちぎりでした(笑)」。
レーシングドライバーとしても活躍する池沢氏。26才の時に筑波でレースデビュー、翌'77年から富士フレッシュマンレースに本格的に参戦開始し開幕1、2戦優勝。「TSサニーは当時乗っていたポルシェよりアンダーパワーで、足回りはレース用にしっかり固められていたので、すごく乗りやすかったですよ」。この後、マイナーツーリングやFJ、RS、N1を経て'94年から3年間ランボルギーニでのGT参戦。この間、2年連続筑波シリーズチャンピオンなど輝かしい戦績を残している。
 
 
 
 

 
70年代の日本のラリーシーンで活躍し、ダイハツのワークスドライバーとして
`79年にはマレーシアで開催されたラリーに参加、 海外で開催されたラリーで日本人初の優勝者となった日下部保雄氏。
80年代からサーキットでレースに参戦 「一秒を削る競技から0.1秒を削る競技」へと転向し、
海外レースも含めてレーシングドライバーとして多くの実績を残している。
そして、モータージャーナリストとしての活躍は皆さんにも馴染み深いに違いない。
今回は日本自動車ジャーナリスト協会副会長という斯界の重鎮でもある 日下部保雄氏のオフィスを訪ねた。

モータースポーツほど刺激的なスポーツはない。

 実家がタクシー会社に土地を貸していて、その一角に住んでいた ので子供の頃からクルマに乗せてもらってましたから、そんな事もク ルマ好きに影響してるかもしれません。でも一番惹かれたクル マそのものよりもモータースポーツでした。日本グランプリやホンダの F1参戦には胸が踊りましたね。これは今でも変わらず、その緊張感やクルマという機械をコントロールして競う楽しさは他になく、モータースポーツほど刺激的で魅力的なスポーツはないと思っています。
 我々の頃は16才で軽自動車の免許が取れたので、高校に入ると迷わず自動車部に入部。スバル360やキャロルでラリーに参加するようになりました。
 大学時代は自動車部ではなく別のクラブでラリーをやっていました。みんないろんなクルマに乗っているので、合宿ではそれを交代に乗って昼はジムカーナ、夜は林道を走るんです。どのクルマに乗っても速い人は速いんで、お互いに話あったり横に乗せてもらったりしました。 自分のドライビングが大さくスキルアップしたのはこの頃だと思います。
 大学卒業後に会社勤めをしたんですが、ラリーをやりたくて辞めてしまいました(笑)。タイヤテストの声がかかって開発に携わるようになりましたが、それだけでは生活できない。ちょうどオートテクニック誌から「原稿を書いてみないか」といわれて書き始めたのかジャーナリストへの第一歩で、以来これを本業としてレース活動をする形で現在に至っています。

ドライビングスクール開催。

 70年代はラリー中心のレース活動でした。僕らが目指していたのはヨーロッパタイプのスピードラリーで、次々と現れる様々な状況に対処しながら長距離を走るというチャレンジングでダイナミックなところが魅力でした。80年代後半には時代とともに規制か厳しくなって、ラリーのスケールか小さくなってしまい、それも一因でラリーからサーキットへ転向しました。それだけに、昨年の北海道でのWRC開催実現は感激しましたし、ここを走りたいという気持ちも出て来ましたね(笑)。
 そうしたレース経験を社会に還元したい、というと大袈裟ですが、そんな気持ちから始めたのが一般ドライバーの方を対象にしたドライビングスクールです。クルマを正しくコントロールすることが安全につながり、そのうえで運転する楽しさを知ってもらいたいということです。
初めて受講されるほとんどの皆さんが出来ていないのは、正しいドライビングポジションです。お尻をきっちりシートに納めてブレーキとハンドルに充分手が届くポジション。これだけでもコントロールのしやすさが違うし疲れも違います。細かく言えば、朝と夜で微妙に身長が違うので、シートポジションを再調整した方がいいんです。私も乗るたびにグッグッとブレーキを2〜3回踏み込んでポジション調整をしています。
まず基本をきっちり押さえることが大切なんです。ただ、日本は場所代が高いのでスクール料金も割高になってしまうのが残念。この辺を改善できるといいんですが。

クルマが面白くなる。

 最近のクルマについて言えば、これからまた面白くなりつつあると思います。クルマは常に社会的な要請を背景に政治や法律との絡みがあり、エンジンの環境性能や安全性能など様々な規制に対応していかなければならないのが実情です。でも一つだけ、規制の対象にできないのがドライバーの感性に訴える運動性能に関してです。今、クルマづくりの上で多くのメーカーがアプローチをしているのがこの部分です。ヨーロッパのクルマはある程度クリアして更に研鑽している段階ですが、国産車はまだ手探りで、形が固まりつつあり磨きこんでいくところでしょうか。それでもこうした流れから、それぞれのメーカーが個性を打ち出した面白いクルマが出てくると思います。
 日本のクルマも50年を経て、歴史を語れるくらいの積み重ねが出来てきました。これから本当のクルマ文化が深まっていくのではないでしようか。ですから、もっともっと多くの人にクルマを好きになってもらいたい。そのお手伝いをしていくのが、我々モータジャーナリストの役割だと思っています。

 
'00年 鈴鹿1000キロレース クラス2位
'97 モンテカルロラリー、かってのナビ、
森川修氏とミニ35周年を記念して参戦。
'03年 ニュルブルクリング24時間耐久レース。
三好正巳氏、桂伸一氏ともに参戦。
ドライバーとして多くの実績を上げてきた日下部氏。ラリーでは大庭誠介氏とRACラリーにも参戦、レースでは'89年、'90年にはサザンオールスターズのパーカッションの野沢秀行氏の「ケガニレーシングチーム」ドライバーとして2年連続シリーズ2位穫得、ドイツのニュルブルクリンクの耐久レースにも参戦するなど、国内外で多くの活躍をしてきた。残念ながり今シーズンは仕事が忙しく、レースの予定はないが「ニュルはまた走りたいし、ラリー北海道も走ってみたいですね」。
 
クルマのインプレッションを書くときは「工業製品としての完成度や趣味性、価格などを考慮にいれますが、一番重要なのはそのカテゴリーとして何が求められるのか、ということですね」。そうした視点から見ても、昨今の車は「完成度が高い」とのこと。「極論すれば『自分が好きだと思うクルマがその人に取っていいクルマ』なんです」。日下部氏ご白身が印象に残ったクルマとして「BMW旧5シリーズのE39は良くできたクルマでしたね」。
日下部保雄(くさかべ・やすお)1950年生 東京都出身

 慶応高校在学時よりモー夕ースポーツ活動を開始。79年、マレーシアラリーで海外ラリー日本人初の優勝者となる。84年全日本ラリーAクラス、86年N1東日本、東北チャンピオンを始め、グループAインターテック優勝などレース/ラリーを通じ輝かしい戦跡を残している。
 ジャーナリスト方面では自動車専門誌、雑誌で活躍中。ドライビングインストラクターとして、安全で余裕のあるスポーツドライビング人口を育成すべく尽力。
AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)副会長。
SIA(セーフティドライビング・インストラクターズ・アカデミー)理事。
日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。有限会社プロスペック代表。
http://www.prospec.gr.jp/
 

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