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'04年のスーパー耐久Nプラスクラスでシリーズチャンピオンを獲得した影山正彦選手。
'84年のレースデビュー以来、フレッシュマンチャンピオン、F3チャンピオンなど様々なカテゴリーで多くのチャンピオンを勝ち取ってきた。また、'98年にはルマン24時間で星野一義選手、鈴木亜久里選手とともに日本人チーム初の表彰台に輝いている。
今シーズンはスーパー耐久ST5クラス(昨年までのNプラスクラス)で#37/ARTA F.O.S アルテッツァをドライブ。第4戦十勝24時間を終えた時点で、'05シーズンクラストップを
キープ。
今年度のクラス優勝が期待される影山正彦選手を訪ねた。

ここで勝負をしたい!

 16からバイク、18才からスカイラインのRSで峠を走るようになり、仲間うちでも速い方だったんですよ。そんな時、先輩が出入りしていたタイヤショップがTSサニーをスポンサードしていた関係で「レースを見に行こう」と誘われたんです。レースなんて自分とは別世界だったし、スターレットやサニーのレースと聞いて「草レース」だと思ってました(笑)。その時行ったのが富士フレッシュマンで、行ってみてたらフルチューンのスターレットやサニーに驚きましたね。その日、タイヤショップのTSサニーは小雪混じりの中ぶっちぎりで優勝。第1コーナーの金網越しに見ていて凄いショックを受けました。こんな世界があるのかって。「ここで勝負をしたい!」と正直思いました。これがGCみたいなトップカテゴリーなら別世界と思ったでしょうけど、TSは頑張れば手が届きそうだったんです。
 それでレースに出るために1年半、3時間の睡眠でバイトを続け、500万円を貯めて'84年にTSでデビューし4戦出場。翌年はフルに出たんですがトップはマイナーツーリングで使っているマシンでストレートのスピードも全然違い、どう考えても自分のマシンでは6位に入るのが精一杯。なんとか一年間やりましたが、借金も1000万円近くなってもう限界だと。普通の家庭で裕福でもないし、TSのレースをやること自体ものすごい大きなエネルギーが必要でした。大変さを知るほど道楽でやるようなことではなく、将来的に車に乗ることでお金が貰えるようになりたいと本気で思い始めてきたところでしたから、レースを諦めざるを得ないと思った時の挫折感っていうのはすごかったですね。

蜘蛛の糸。

 先輩の知り合いだったことから当時若手No1だった萩原光(あきら)さんには色々とレースの相談にのっていただいて本当にお世話になっていたので、レースを諦めたとき「レースを辞めます。お世話になりました」と挨拶に行ったんです。そしたら「レイトンハウスに相談に行ってこい」と紹介をいただいて、言われるがままに行ったところ「来年うちで車用意してやるからやってみろ。どこの車にのったらお前は勝てるんだ」と自分の望むクルマで'86年のフレッシュマンを走れることになったんです。このチャンスを作ってくれた萩原さんが'86年に他界されてしまったのが本当に残念でなりません。このチャンスがなかったら今の僕はなかったかもしれず、本当に地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸という感じでした。
その後、いつもチャンスを頂いた時は蜘蛛の糸という感じで「これは最後の一本だ。この一本を切らしたら、この路線には戻れない」という危機感をいつも持っていましたね。その一本を切らさないためにも、無我夢中で結果を出すことに集中しました。

今、何をすべきかということを的確に判断。

 勝つためには、クルマに対してもはっきり要求を言わせてもらいました。例えば、F3の2年目はシーズン15位。「あいつダメなんじゃないか」っていう声が出ます。でも自分としてはエンジンもシャーシも悪かった。そこで「来年だめだったらレースを辞めます。だからチャンスを与えてくれませんか」っていう話をし、思い通りの車両条件を理解していただき、翌年勝負して前年度一度も表彰台に上がらなかった僕がシリーズチャンピオンをとったんです。
 はっきりするためにはいい物を揃えること。中途半端な体制でやっていても駄目だと思うんです。ドライバーは自分に言い訳がきかない条件まで追い詰めて結果を残さないと駄目ですね。勝てる自信がないドライバーはそこまで言えないと思うんですよ。その自信は何の根拠もない自信ではなく、この車でこれぐらいは走れたんだからという、少しずつ積み重ねてきた自分の中の尺度があるんです。
 そして、シリーズチャンピオン獲るというのは、勝てるべきレースはしっかり勝つ。でも、シーズン全体を見て、明日勝つために今日は負けておくというレースもあると思うんです。これは僕の考えなので、賛否両論あると思いますけど。ただ、1位を獲るリスクをおかして、結果シリーズが非常に苦しくなってくることもある。やっぱり今できる最高の仕事をするというのもレーシングドライバーとしての仕事の一つだという考え方が僕にはあるんです。全部勝つことが一番ベストだけれど、その現状で「今、何をすべきかということを的確に判断できる人間」がいいレーシングドライバーだと思うんですよ。



現役のドライバーとしてレース参戦する一方、トヨタレーシングドライバーズミーティングや一般向けの講習、フォーミュラトヨタレーシングスクールの講師を勤めるなど、後進の指導や一般のドライバーへの指導などにもたずさわる。「今まで自分がモータースポーツ界で培ってきた経験、成功したことも失敗したことも含めて、いろいろ若手に伝えていい形で残せていけたらなと思いますね」。
影山 正彦(かげやま・まさひこ)1963年生 神奈川県出身

 '84年富士フレッシュマンレースでレースデビュー 。'86年富士フレッシュマンレース TS1300クラスチャンピオン 。'87年より全日本F3選手権 参戦。'89年全日本F3選手権 シリーズチャンピオン(9戦中5勝)。'90年より全日本F3000選手権 参戦。'91年全日本ツーリングカー選手権 参戦。'93年 全日本GT選手権 シリーズチャンピオン。'94年全日本GT選手権 シリーズチャンピオン。'95年全日本GT選手権 シリーズチャンピオン、ル・マン24時間レース 参戦。'98年ル・マン24時間レース 参戦(3位)。'04年スーパー耐久Nプラスクラスチャンピオン。
'98年フォーミュラニッポン。第1戦と第5戦で優勝。シリーズランキング2位。マシンはMaziora Team Impul LolaT96-52。    
'84年のレースデビューから5年目の'89年にF3チャンピオンを決め、 '90年にはF3000にステップアップ。マシンはKYGNUS TONEN LOLA。手前は弟の影山正美氏。    
ルマン24時間には'95年から参戦。星野一義選手がルマン最後の年と表明して参加した'98年には日本人ドライバーチームとして初の表彰台に立つ。「恩師である星野さんと一緒に僕の名前を刻めたっていうのが最高の喜びでした」。初めての世界レベルの表彰台は「メインスタンドからコース上、パドックまで埋め尽くした何万人もの人達が足下に広がり、そこでトロフィーを貰うっていう感動は大きかったですね。あの風景は未だに目に焼き付いて一生忘れない宝物です」。(写真は'00年テレビ局の企画で鈴木利男選手、弟の影山正美選手と参戦時。)  
'04年 スーパー耐久N+クラスシリーズシャンピオン獲得の表彰台で番場琢選手と喜びを分かちあった。
 
 

 
2005シーズン、スーパー耐久とスーパーGTの両カテゴリーに
木下みつひろ選手とペアを組みエンドレス アドバン Zで参戦する影山正美選手。
特にスーパー耐久ではポルシェのワンメイク状態だったST1クラスに
唯一フェアレディZでの参戦に注目と期待が集まる。
影山正彦選手の実弟でもあり、兄弟揃ってのトップレーサーとして話題も多い。
今回は新しくなった富士スピードウェイのパドックをたずね、
スーパー耐久第5戦の練習走行の合間を縫ってお話しをうかがった。

兄貴が言うんなら、絶対面白い。

 小さい頃から4才上の兄(影山正彦選手)についていくと楽しい事があるというのがあって、兄がレースをやるキッカケになった富士のレース観戦に行った時も一緒に行ってたんですよ。中学2年でした。「レースをやろうぜ!」って言われて「兄貴が言うんなら絶対面白いだろう」と苦労も知らずに、「やろう、やろう」ということで兄をサポートすることから始まったんです。
 レースに出るにはお金が必要なんで「中学卒業したら働くよ」って、働き始めて最初の給料からレース資金を出してました。二人で買ったTSサニーで、兄がステップアップしたら乗ればいいっていう話だったんですけど、3年間やって借金が増えて「辞めます」という話になった時「おいおい、俺乗ってないのに」って(笑)。でも、今まで兄の友達や先輩に車の横に乗せてもらっても兄貴が一番うまいって感じていましたから、それでもレースの世界で通用しないんだったらしょうがないと思いましたけどね。それが、兄を可愛がってくれていた萩原光さんの紹介で一緒にレイトンハウスに入れることになり、今につながる大きなチャンスになりました。

乗れない間にどう自分が速くなるか。

 レースは'87年、19才の時にレイトンハウスからフレッシュマンでデビューしました。最初から自己資金ではなくレイトンカラーで走れたというのは凄く恵まれた環境でしたね。キッカケはレイトンハウスに入って、空いているクルマに「乗ってみろ」と練習走行をさせてもらったことです。実はそれまで、自分ではサーキットを走行したことはなかったんですが、人の走りを見てきた時間は凄く長いんですよ。兄のレースのデータを取るためにFISCOでは行けるところは草むらをかき分けてでも金網よじ登ってでも行って区間タイムを計り、うまい人のラインとか技術を常に見て比較してましたから、富士のコースのラインも全部判っていたんです。“いずれ自分が乗るんだ”という気持ちで常に観ていたので、初めてTSに乗せられたときにも比較的苦労しないですんだ感じですね。その後も、僕より先にステップアップしていく兄の計測をしながら、うまい人の音とラインとリズムを頭に入れていったんですよ。乗れない間にどう自分が速くなるか、今置かれている環境でどう動いたらプラスになるかというのは常に考えていました。今を嘆くんじゃなくて、その環境をいかに自分でポジティブに考えられるかっていう自分の性格もよかったんじゃないかなって思うんですよ。
 でも、僕が「フォーミュラにステップアップしてプロになりたい」といった時に反対したのは兄で、一年くらいロクに口を聞いてくれなかったんです。怒ってるんだと思っていたんですが、後で聞いたらウチは母と僕らの3人なんで、二人ともドライバーという危険な仕事につく事を心配していたらしいんです。母も僕には「やりたいようにやんなさい」といってくれていたんですが、本心では諦めて欲しいと思っていたようなんです。でも、兄と同じ血が流れてるんですから無理ですよね(笑)。

せっかく持っている知識をわけてあげたい。

 当初、兄と比較されることも多かったんですが、どんな仕事でも比較の中で評価されるわけですから、たまたま相手が肉親だっただけで特にイヤだとか思ったことはありません。ただ、レースを始めた頃に「お兄ちゃんは速いけど弟はね」という話が聞こえてきたりすると、そう言っている人を見返してやろうっていう気持ちはすごく強かった。数年後に当時そう言っていた方の中から「乗らないか?」という話が来た時は、認めてくれたことがすごく嬉しかったですね。兄は僕が追い掛けるいい目標だし、正彦の弟ということでトップドライバーの方が僕の走りを見ていてくれたし、自分としては凄く恵まれた環境だったと思います。
 今「Masami Meeting」というスクールを年3回開催しています。参加者は初心者や女性はもちろん、S耐やGTに参戦している人もいて「あのスクールに参加して速くなった」と言う声がすごく嬉しいんです。プロとしてギャラがもらえるドライバーはなにが上手いかというとブレーキングなんです、止まるブレーキと曲がるブレーキ。ここをどう教えるか。それを今までは教えたくなかった。これまで必死に苦労し経験し貯えてきた企業秘密ですから。でも、せっかく持っている知識をわけてあげたいという歳になったんですよね。先生と呼ばれる立場になるとは思いませんでしたが、その立場になった事で違った楽しさを発見し、「もっとこうしよう」とか今までの人生の中で考えなかったような事を考えるようになって、それはそれですごく楽しいですね。
 今シーズンも折り返し地点にきましたが、スーパー耐久もスーパーGTも頑張っていきますので是非サーキットに足を運んで、レースを楽しんでいただければと思います。

  スーパー耐久、スーパーGT共に木下みつひろ選手とのペアでエンドレスアドバンZをドライビングする。「フレッシュマンで走りはじめたころ、エントリーリストで平仮名の『みつひろ』という名前とアドバンカラーのマシンが凄く印象に残りました。今、そのみつひろさんと一緒に走れるのは嬉しいですね」。スーパーGTは第1戦で優勝を果たし、第4戦終了時点でクラス3位をキープしている。    
  '97年、JTCC/TCCAカップ シリーズチャンピオンを獲得した#25土屋エンジニアリングのアドバンエクシブ    
'98年、フォーミュラニッポン開幕戦で兄・影山正彦選手と1-2フィニッシュ。優勝した兄(右)とシャンパンで祝福しあう影山正美選手。このシーズンは兄弟それぞれ2回づつの優勝を果たし、正美選手はシリーズ2位となった。    
'98年、エリック・コマス選手とのペアでGT500シリーズチャンピオン。車両は#23ペンズオイルニスモGT-R  
ポルシェのワンメイク状態だったスーパー耐久ST1クラスに、今シーズン一石を投ずるべく参戦し注目を集める#3エンドレス アドバン Z。前半は苦戦を強いられたが、マシンの仕上がりとともにシリーズ後半に期待がかかる。
(写真は'05スーパー耐久第5戦富士での練習走行)
 
「最初の頃は“速さ”だけを求めて随分マシンを壊しました」。F3の一年目は所属チームがパーツ屋さんの売り上げNo.1だったとか。土屋エンジニアリングで走るようになり、代表の土屋春雄氏(本紙314号参照)から「精神コントロールの仕方を教えていただき、レースと言うものが分かって来たころから車を壊さなくなりました」。97〜8年には完走率100%で「昔を知る人は驚いてましたね(笑)。」
影山 正美(かげやま・まさみ)1967年生 神奈川県出身

'87年富士フレッシュマンでレースデビュー。'90年 フォーミュラトヨタ初代チャンピオン。'92年N1耐久 クラス2 シリーズチャンピオン。'91-'94年 全日本F3選手権参戦。'94-'99,'01年 全日本F3000/フォーミュラニッポン参戦。'95年全日本GT選手権参戦。'96年-'97年JTCC参戦。'97年 JTCC/TCCAカップ シリーズチャンピオン。'98年フォーミュラ・ニッポン(2勝・シリーズ2位)、 GT500クラスシリーズチャンピオン。'97-'00年ルマン24時間レース参戦。'03年 GT500(#22モチュールピットワークGT)総合シリーズランキング3位。スーパー耐久シリーズ第5戦、第10回十勝24時間レースにスポット参戦(FALKEN PORSCHE)、総合優勝を飾る。'04年 GT500(#22モチュールピットワークZ)で第4戦に優勝、500クラス単独最多7勝目。フォーミュラ・ニッポンに第6戦MINEサーキットから参戦(#12COSMO OIL RACING TEAM CERUMO)。'05年GT300(#13 エンドレス アドバンZ)とスーパー耐久ST1クラス(#3 エンドレス アドバンZ)に参戦中。同じくレーシングドライバーの影山正彦選手は実兄。
公式サイトhttp://www.mk-wave.com/
 

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