ここで勝負をしたい!
16からバイク、18才からスカイラインのRSで峠を走るようになり、仲間うちでも速い方だったんですよ。そんな時、先輩が出入りしていたタイヤショップがTSサニーをスポンサードしていた関係で「レースを見に行こう」と誘われたんです。レースなんて自分とは別世界だったし、スターレットやサニーのレースと聞いて「草レース」だと思ってました(笑)。その時行ったのが富士フレッシュマンで、行ってみてたらフルチューンのスターレットやサニーに驚きましたね。その日、タイヤショップのTSサニーは小雪混じりの中ぶっちぎりで優勝。第1コーナーの金網越しに見ていて凄いショックを受けました。こんな世界があるのかって。「ここで勝負をしたい!」と正直思いました。これがGCみたいなトップカテゴリーなら別世界と思ったでしょうけど、TSは頑張れば手が届きそうだったんです。 それでレースに出るために1年半、3時間の睡眠でバイトを続け、500万円を貯めて'84年にTSでデビューし4戦出場。翌年はフルに出たんですがトップはマイナーツーリングで使っているマシンでストレートのスピードも全然違い、どう考えても自分のマシンでは6位に入るのが精一杯。なんとか一年間やりましたが、借金も1000万円近くなってもう限界だと。普通の家庭で裕福でもないし、TSのレースをやること自体ものすごい大きなエネルギーが必要でした。大変さを知るほど道楽でやるようなことではなく、将来的に車に乗ることでお金が貰えるようになりたいと本気で思い始めてきたところでしたから、レースを諦めざるを得ないと思った時の挫折感っていうのはすごかったですね。
蜘蛛の糸。
先輩の知り合いだったことから当時若手No1だった萩原光(あきら)さんには色々とレースの相談にのっていただいて本当にお世話になっていたので、レースを諦めたとき「レースを辞めます。お世話になりました」と挨拶に行ったんです。そしたら「レイトンハウスに相談に行ってこい」と紹介をいただいて、言われるがままに行ったところ「来年うちで車用意してやるからやってみろ。どこの車にのったらお前は勝てるんだ」と自分の望むクルマで'86年のフレッシュマンを走れることになったんです。このチャンスを作ってくれた萩原さんが'86年に他界されてしまったのが本当に残念でなりません。このチャンスがなかったら今の僕はなかったかもしれず、本当に地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸という感じでした。 その後、いつもチャンスを頂いた時は蜘蛛の糸という感じで「これは最後の一本だ。この一本を切らしたら、この路線には戻れない」という危機感をいつも持っていましたね。その一本を切らさないためにも、無我夢中で結果を出すことに集中しました。
今、何をすべきかということを的確に判断。
勝つためには、クルマに対してもはっきり要求を言わせてもらいました。例えば、F3の2年目はシーズン15位。「あいつダメなんじゃないか」っていう声が出ます。でも自分としてはエンジンもシャーシも悪かった。そこで「来年だめだったらレースを辞めます。だからチャンスを与えてくれませんか」っていう話をし、思い通りの車両条件を理解していただき、翌年勝負して前年度一度も表彰台に上がらなかった僕がシリーズチャンピオンをとったんです。 はっきりするためにはいい物を揃えること。中途半端な体制でやっていても駄目だと思うんです。ドライバーは自分に言い訳がきかない条件まで追い詰めて結果を残さないと駄目ですね。勝てる自信がないドライバーはそこまで言えないと思うんですよ。その自信は何の根拠もない自信ではなく、この車でこれぐらいは走れたんだからという、少しずつ積み重ねてきた自分の中の尺度があるんです。 そして、シリーズチャンピオン獲るというのは、勝てるべきレースはしっかり勝つ。でも、シーズン全体を見て、明日勝つために今日は負けておくというレースもあると思うんです。これは僕の考えなので、賛否両論あると思いますけど。ただ、1位を獲るリスクをおかして、結果シリーズが非常に苦しくなってくることもある。やっぱり今できる最高の仕事をするというのもレーシングドライバーとしての仕事の一つだという考え方が僕にはあるんです。全部勝つことが一番ベストだけれど、その現状で「今、何をすべきかということを的確に判断できる人間」がいいレーシングドライバーだと思うんですよ。
兄貴が言うんなら、絶対面白い。
小さい頃から4才上の兄(影山正彦選手)についていくと楽しい事があるというのがあって、兄がレースをやるキッカケになった富士のレース観戦に行った時も一緒に行ってたんですよ。中学2年でした。「レースをやろうぜ!」って言われて「兄貴が言うんなら絶対面白いだろう」と苦労も知らずに、「やろう、やろう」ということで兄をサポートすることから始まったんです。 レースに出るにはお金が必要なんで「中学卒業したら働くよ」って、働き始めて最初の給料からレース資金を出してました。二人で買ったTSサニーで、兄がステップアップしたら乗ればいいっていう話だったんですけど、3年間やって借金が増えて「辞めます」という話になった時「おいおい、俺乗ってないのに」って(笑)。でも、今まで兄の友達や先輩に車の横に乗せてもらっても兄貴が一番うまいって感じていましたから、それでもレースの世界で通用しないんだったらしょうがないと思いましたけどね。それが、兄を可愛がってくれていた萩原光さんの紹介で一緒にレイトンハウスに入れることになり、今につながる大きなチャンスになりました。
乗れない間にどう自分が速くなるか。
レースは'87年、19才の時にレイトンハウスからフレッシュマンでデビューしました。最初から自己資金ではなくレイトンカラーで走れたというのは凄く恵まれた環境でしたね。キッカケはレイトンハウスに入って、空いているクルマに「乗ってみろ」と練習走行をさせてもらったことです。実はそれまで、自分ではサーキットを走行したことはなかったんですが、人の走りを見てきた時間は凄く長いんですよ。兄のレースのデータを取るためにFISCOでは行けるところは草むらをかき分けてでも金網よじ登ってでも行って区間タイムを計り、うまい人のラインとか技術を常に見て比較してましたから、富士のコースのラインも全部判っていたんです。“いずれ自分が乗るんだ”という気持ちで常に観ていたので、初めてTSに乗せられたときにも比較的苦労しないですんだ感じですね。その後も、僕より先にステップアップしていく兄の計測をしながら、うまい人の音とラインとリズムを頭に入れていったんですよ。乗れない間にどう自分が速くなるか、今置かれている環境でどう動いたらプラスになるかというのは常に考えていました。今を嘆くんじゃなくて、その環境をいかに自分でポジティブに考えられるかっていう自分の性格もよかったんじゃないかなって思うんですよ。 でも、僕が「フォーミュラにステップアップしてプロになりたい」といった時に反対したのは兄で、一年くらいロクに口を聞いてくれなかったんです。怒ってるんだと思っていたんですが、後で聞いたらウチは母と僕らの3人なんで、二人ともドライバーという危険な仕事につく事を心配していたらしいんです。母も僕には「やりたいようにやんなさい」といってくれていたんですが、本心では諦めて欲しいと思っていたようなんです。でも、兄と同じ血が流れてるんですから無理ですよね(笑)。
せっかく持っている知識をわけてあげたい。
当初、兄と比較されることも多かったんですが、どんな仕事でも比較の中で評価されるわけですから、たまたま相手が肉親だっただけで特にイヤだとか思ったことはありません。ただ、レースを始めた頃に「お兄ちゃんは速いけど弟はね」という話が聞こえてきたりすると、そう言っている人を見返してやろうっていう気持ちはすごく強かった。数年後に当時そう言っていた方の中から「乗らないか?」という話が来た時は、認めてくれたことがすごく嬉しかったですね。兄は僕が追い掛けるいい目標だし、正彦の弟ということでトップドライバーの方が僕の走りを見ていてくれたし、自分としては凄く恵まれた環境だったと思います。 今「Masami Meeting」というスクールを年3回開催しています。参加者は初心者や女性はもちろん、S耐やGTに参戦している人もいて「あのスクールに参加して速くなった」と言う声がすごく嬉しいんです。プロとしてギャラがもらえるドライバーはなにが上手いかというとブレーキングなんです、止まるブレーキと曲がるブレーキ。ここをどう教えるか。それを今までは教えたくなかった。これまで必死に苦労し経験し貯えてきた企業秘密ですから。でも、せっかく持っている知識をわけてあげたいという歳になったんですよね。先生と呼ばれる立場になるとは思いませんでしたが、その立場になった事で違った楽しさを発見し、「もっとこうしよう」とか今までの人生の中で考えなかったような事を考えるようになって、それはそれですごく楽しいですね。 今シーズンも折り返し地点にきましたが、スーパー耐久もスーパーGTも頑張っていきますので是非サーキットに足を運んで、レースを楽しんでいただければと思います。