モータージャーナリストとして幸せな世代。
僕の子供の頃、時代の最先端はクルマしかありませんでしたから、みんな自然にクルマに興味を持ちましたね。高校時代は同人誌を作っていたくらいモノを書くことも好きだったので、自分のやりやすいことで考えたら、クルマ関係で文章を書く仕事だったんです。大学4年の時、購読していた雑誌で編集部員募集広告を見つけて応募したのがこの世界に入ったキッカケです。 入社は1970年ですから、日本の高度成長期から、'80年には日本が世界一の自動車生産国になり、'90年代バブルの高級車ブーム、そして環境・次世代エネルギーに移行する'00年代と、日本のモータリゼーションが二次曲線的に変化していく様子に常に関わってくることができました。本当に毎日スリリングで面白くて、モータージャーナリストとしては最も恵まれた世代だと思いますよ。今はさらに技術の進歩も急速になって、新しいモノ好きの僕としては凄く面白い時代ですね。
クルマの味方。
ジャーナリストは『消費者の味方です』っていう暗黙の了解がありますが、僕はそうじゃないんです(笑)。消費者の誤りで間違った商品づくりに走った事例もありますからね。もちろんメーカーの味方でもなく、どちらも等距離におき、敢えていえば『クルマの味方』ですね。よく「今一番欲しいクルマは」と聞かれますが、年間350台近く試乗する中で、僕はその日に乗ったクルマが一番欲しいクルマになってしまうんです(笑)。ハード面は自分が測定機器になって評価しますが、もう一方『用途』という面から、そのクルマに似合う乗り方や服装、顔つきまで(笑)完璧にイメージできて、その気分に入り込めるんです。ラリーカーならラリードライバーだし、高級車ならゴルフバックをつんだ日曜のオヤジとか。精神的なコスプレですね(笑)。気持ちを入れ込んでしまうと、その時そのクルマが一番欲しいクルマになるんです。 以前から思っていますが、例えば『英国車が云々』とか『国産車はまだまだ』とかいう括りは意味がない。それは『気さくなアメリカ人』『底抜けに明るいイタリア人』というようなもので、人嫌いなアメリカ人もいるし、暗いイタリア人もいる(笑)。やはり、人間なら個人を見て欲しいと思うように、クルマもそのクルマを見て評価するべきだという見方をしています。一方、クルマづくりの社風というのはあります。例えばスバルのクルマづくりは、同じ日本のトヨタより実はアウディに近い。そういった面でも外車、国産という括りは無意味なんです。 また、マニアックな人は「マニュアルシフトがクルマの醍醐味」といいますが、僕はAT派でもMT派でもありませんし(笑)ターボ対ノンターボとか、どちらでもいいんです。僕はそのクルマごとに合った用途と良さが重要だと思っています。
「汽水域」の時代。
今一番大きなキーワードは『環境』です。時代はそこに急速に流れていって、極論すれば『クルマとは本来、電気自動車のことだ』と僕は思っています。クルマの本質は好きな時に好きなところへ移動する手段を個人所有できる『モビリティーの自由』なんです。それを実現するハードウェアたるクルマが、危機的に悪化していく地球環境の中で対応ができなければその自由が規制される事態もありうるわけです。それが一番怖いことです。クルマは一部マニアだけの物ではありませんから。ある日急に『内燃機関禁止』となっても僕は未練はないですね。すぐに電気自動車のチューニングに走ってますよ(笑)。 今は『汽水域』、つまり川が海に出て淡水と海水が混ざり合い魚介類の宝庫となる水域ですが、そんな時代です。まだ未完成ながら新しい技術のクルマがどんどん生まれる一方、滅びるのはわかっていながら、たぐい稀な完成度を誇る内燃機関のクルマ。そのどちらも選べる幸せでスリリングな時代です。僕としては楽しくて仕方がないですね。 この10年程、洋の東西にかかわらずクラシックカーイベントが増えています。楽しいし、否定しませんが、それは一時代を切り取ったスチール写真のようなもので、一つの価値観を続けていきたいという思いと、これから先の変化への不安があるようにも感じます。でも、確実にクルマは変化していくわけで、それに怯えるのではなく、どうせ変化するのならより良い方向へ変化していくように努力すること。これが、我々現役ジャーナリストの役割だと思いますね。
ラジコンで世界を経験。
子供のころ近所では少し有名なラジコン少年で(笑)、小5の時に全国大会初参加で4000人中20位くらいになったんです。その頃には、アライメントや重量配分など、どうセッティングするとどんな挙動をするか一通り理解してました。でも全国転戦の大会会場には遠くて子供一人では行けず“人の力を借りないとレースはできない”事も痛感しましたね。レースにはメーカーの開発者も来ていて、結果を出すと目にとまるので製品テストにも携わるようになり、高校時代にはワークスの一員として海外の世界大会にも行かせていただくようになったんです。各国のメカニックさんとのコミュニケーションの重要さや結果への責任、結果が出ない時のファンの失望、そして辛い時をどうこなすかなどイヤというほど学び、その経験は今も役立っていますね。(笑)。 ラジコンで世界10位以内に入る頃、実車でのレースを開始しました。1/1になっただけで自分の中ではレースという意識は連続しているんです。最初に走ったのはKP61で、クルマの動きの理解やレースの駆け引きはラジコンの経験が活きました。初優勝は2戦目でしたが、気持ちは一つの勝ちよりシリーズ全体に向いていましたね。 実車は23才からでしたのでステップアップを急ぎ、ザウルスJr、FJを経て4年目にF3に参戦を開始したところで、父親が急に他界してしまったんです。小さいながらも会社を経営していたので、全くの素人の僕が長男ということで後を継ぐことを決心しました。26才の時です。
レースを断念。
会社は大型店舗の空調を設計・施工する仕事で、建築や消防の資格が必要なんです。専門知識を学ぶため夜学に通い、昼間は現場という生活になりました。2年程レースと平行したんですが両立は難しく、全てに集中できないので一旦レースを断念。好きなレースでも競うには5年はかかっているわけで、会社も10年はかかると覚悟し、以来レースの情報は一切入れませんでした。本当にもがいていた時期で、先代からの取引先様にも温かいご協力をいただくことができ、人間関係の大切さを改めて感じましたね。 そうした中でも、レースをやりきらないままで終らせたくない気持ちは強くありました。2002年にはようやくレースができそうな状態になってきたので、まずスポットでレースに復帰し、ブランクの間に自分の能力がなくなってしまったのか、眠っているだけなのか確かめたんです。それで手ごたえを感じたので、本格的な復帰を目指したわけです。もちろん、社内や取引先にもご説明して賛同をいただいた上でのことです。そして、やるからにはチャンピオンを取りたい。そのためには何が必要かは分かっていました。ただ、ブランクのある人間がすぐに乗れるシートがあるわけではなく、自分で確保するしかなかったので、旧知のHPIさんにスポンサーをお願いして一緒に走らせてもらえる状況を作り、昨年からプローバさんのチームでスーパー耐久に参戦させていただけるようになったんです。
レースの中にビジネスが 存在しないことはあり得ない。
レースに復帰するにも、ただ自分の満足感や、やり残した勝手な思い出のまとめをしたいということではありません。たとえばノーギャラで乗せてあげるから走りますか、と言われても乗らなかったと思います。当然そんなお話しも無いですが(笑)、それは趣味になってしまって、そこにモチベーションはないですから。ラジコン、レース、会社経営という経験の全てをスライドして、今走ることのモチベーションは、スポンサーのプロモーションにいかに貢献できるかということでやっています。自分で会社をやってみると会社のお金を他人に預けることの重さが良くわかります。レースの中にビジネスが存在しないことはあり得ませんから、僕が走ることによって、少しでも利益が出てビジネスとして成り立ち、みんなが満足できたら最高だろうなというのが最終目標になりつつありますね。 そのためにも、まずドライバーとしての役割を果たさなければ先へは進めませんし、今シーズンの最終戦は大事な一戦ですから、緊張感はあります。クルマも毎戦よくなっていますし、チームも壊れなくて速いクルマづくりに全力を上げてくれていますから、いつもと同じように走ることを心がけ、まず目前の一戦に全力でとりくみたいと思っています。若い頃は自分だけのレースをやっていたので、こんなに多くの人たちが自分たちの出した結果に一喜一憂するという経験はなく、大きなものを背負っていることを強く感じますね。