初めてのドリフト体験。
ラリーへのきっかけは北海道にいた大学4年の時です。バイト先の先輩に「結婚でラリーをやめるから買わないか」と言われたのがラリー仕様のKP61。モータースポーツは雑誌を見る程度のファンで自分でやろうと思ったことは無いし、サーフィンをやっていたので最初に買ったクルマもビートルだし、走り屋でもありませんでした。正直、買う気はなかったんですが「横に乗れ」と連れていかれたのが冬の林道。その時にコーナーの手前で車を横にして走るドリフト走行を助手席で初体験して「スゴイ!」と感激。「このクルマならこういう走りができるんだ!」(笑)と早速手に入れました。クルマを操る楽しさがわかり、こんなに集中できることはこれまでない経験だったので、日払いのバイト代でガソリンを入れて毎日走り回るようになりました。すんなり入れたのは、中学から高校時代に自転車で四国の峠道の90%を走破したほどの林道好きだったこともあるかも知れません。ところが一ヶ月ほどで谷に転落して全損。オロオロしながら先輩に紹介されていたショップに行ったら驚きもしないですぐに引き上げてくれて、自分には大事故でしたが、ラリーではよくあることだと初めて知りました(笑)。そのショップが当時全日本で活躍していた鎌田豊さんのお店だったこともあって、色々面倒をみていただけるようになり、そこからラリーにのめり込んでいったんです。
職業以上のもの。
地方戦に参加するようになったのが大学卒業の頃で、それからサラリーマンをしながらの活動でした。地方戦でチャンピオンになり、全日本に参戦するために時間のとれる職場に変わり、世界に遠征したいから99年にサラリーマンを辞めてプロになったという感じです。地方戦を始めた当時、周りから「ラリードライバーじゃあ食って行けないから、将来はないよ」(笑)なんて言われてましたが、目標を定めてステップアップしてプロを目指すとか、食える食えないとかそういうことは考えていなくて、ただただラリーが好きで一所懸命に取り組んできた中で、いろんな人に出会い、助けていただいて続けてきたという感じなんです。プロとして独立したのも充分な収入が確保されているかどうかよりも、世界を走りたいという方が気持ちの中で勝っていたので迷いは無かったですね。もちろん、生活ができるかどうかは自分の実力次第なので頑張らなければ、という決意はありました。 今、職業は「ラリードライバー」ですが、職業というと収入を得るための仕事という感じなので自分としては職業という意識はあまりないんです。うまく表現できませんが、ラリーはそれ以上の、あえて言えば自分自身の生き方そのものというか、「ラリードライバー」という「人種」みたいな感覚なんです。それはプライベーターの時代も今も基本的に変わっていません。プロとしての責任感は当然ですが、自然体で一途にやってきた中で、回りの環境が変わって、今があるということですね。
PWRC3年目、優勝を目指して
昨年、スーパー耐久に参戦させていただいてサーキットを走らせていただきましたが、タイヤの使い方など違うカテゴリーを走ることで大きなプラスになりました。レースは格闘技系な感じで(笑)自分の性格はやはりラリー向きだと思いますが、楽しかったし得るものも大きいので、またお誘いがあれば走らせていただきたいですね。 ラリーについては、WRCのラリー北海道が昨年2年目の開催で注目が高まってきています。こうした大きなイベントはこれからの人の目標になり、メジャーになって行くための重要な要素だと思いますので、WRCの一戦に定着して欲しいですね。そのためにも日本人がトップを取ることがドライバーとしての役目だと思います。 一昨年からPWRCに参戦しています。世界の舞台で勝つためにはメカニックやコ・ドライバーなどチーム全体の総合力が本当に重要で、ここ数年は特にそれを強く感じています。ドライバーもそうした中のパーツのひとつですが、チームの雰囲気づくりやみんなの力を集めたクルマで結果をだす重要な役割がありますし、PWRC3年目の今年は優勝を狙う年です。もちろん全日本にも参加しますので、是非応援してください。僕が走ることで一人でも多くの人がラリーに興味を持って、ファンが増えてくれれば、そんなに嬉しいことはありません。
クルマの原風景。
クルマやモータースポーツへの本格的な興味は中学生になった頃に見た「カーマガジン」(当時ベースボールマガジン社発行)がきっかけでした。'66年のポルシェ906タルガフローリオの特集でヨーロッパの牧歌的な風景の中を当時最新のポルシェ906が走っているグラビアに心を打たれましたね。それはモノクロながら映画の1シーンを切り取ったように美しく、僕のクルマに対する原風景になっています。それから毎月購読するようになり、ル・マンのフォードGTやフェラーリ330P4などの記事に狂喜し、欧米のモータースポーツへの憧れは高まっていきました。それが現在へも続くクルマへの思いの原点になっていますね。 一方、さらに小さいころに出会ったのが、創世記で出始めたばかりのプラモデル。最初に手にしたのは三共というメーカーの小さな飛行機だったと記憶していますが、その時の感激は大きく、以来プラモ小僧と化して(笑)これも現在まで続くライフワークとなっています。 もともと、文章を書くことは好きで、'76年にモデルアートというプラモデル雑誌にフリーライターとして連載を持ったのがモノ書きの最初でした。ちょうどその頃、企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)が出版した「スカイラインGTR」の本と出会い、これまでの雑誌にはない資料性.趣味性の高い編集に感動して手紙を書いたら「編集をやらないか」というお誘いを受けたんです。
モデルカーズの創刊。
当時「トヨタの2台のスポーツカー」という2000GTとヨタハチの本を作っている頃で、僕は浮谷東次郎のシルバーのヨタハチのその後を知りたくて、綱島まで取材に出かけたことが印象に残ってます。撮影、取材、原稿書き、レイアウトまで何でもやることになり、ここでエディトリアルを覚えました。その後事情があって、一旦編集を離れるんです。これを言うと必ず笑われるんですが大学生の頃はモデルをやってたんですよ(笑)。その縁で俳優としてプロダクションに所属していて、編集を離れた時期にはウルトラマン80('80年/9/17放映『第25話 美しきチャレンジャー』)や時代劇('81年『木曜ゴールデンドラマ 千姫春秋記』)にも出たんです。それでも、生活は大変で(笑)。そんな頃、「クルマの模型で雑誌を作りたいから」とふたたび声がかかったのが“モデルカーズ”でした。 決まっていたのは『クルマの模型の雑誌』ということだけで、編集のコンセプトづくりから始まりました。クルマ趣味から派生した模型趣味という位置付けをし、実車のストーリーを軸にそのミニチュアたるキットを楽しむ構成で、敢えて工作ガイド的なものは廃しました。当初「実証主義的模型趣味」なんていう言い方をして『大人の趣味として成り立つクルマと模型の雑誌』を目指しました。その根底にあるのは「クルマ好き」という一言なんですが、そんな思いを込めて編集長を退くまでの約10年を“モデルカーズ”とともに走りました。今は新しいメンバーがそのDNAを受け継ぎ、月刊誌として頑張っていますので是非書店で手にとってみてください。
クルマ趣味、そしてプラモデルキット。
僕が魅力を感じるのは人間が図面を引いていた時代の、ヒストリーやストーリーがあるクルマなので、モデルカーズで取り上げたのも旧めのクルマが多くなりました(笑)。今、道具としては素晴らしくなったクルマですが、かつてほどの個性はなく、電化製品のような実車からは趣味性が薄れていると思います。それをプラモデルやミニカーにしても趣味という点からは難しいでしょう。クルマ趣味、模型趣味がこれからどうなってしまうのか、という思いもあります。 ただ、最近の若い人も70年代〜80年代のクルマ、いわゆる旧車というカテゴリーに興味を持つ人が増えています。趣味の対象となる個性やヒストリーを持つクルマというと、その時代のものになるのでしょうね。工業製品は常に新たな技術投入が進歩ですが、“趣味”という観点では必ずしもそうではなく、今、かつて憧れたクルマを時代を超えて楽しめる環境になってきたことが“趣味”の進歩かもしれません。プラモデルやミニカーの世界でも、ここ数年、少し旧めの、しかし魅力ある車種が新しいアイテムとしてリリースされています。プラモデルの金型の進歩は著しく、とても作りやすくなっていますので、気に入ったクルマがあったら是非作ってみてください。モノをつくることを楽しみながら、キットの向こうにある実車の歴史に思いを馳せる。そんなクルマ趣味をもっともっと楽しんで欲しいですね。