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'95年RACラリー総合11位クラス3位、
'96年アジパシ(FIAアジアパシフィックラリー選手権)グループNシリーズチャンピオン、
'98年・'99年はグループAランサーで参戦、二年連続シリーズ2位など
90年代の海外ラリーシーンで多くの戦績を残しているラリードライバー、片岡良宏氏。
'99年でメジャーラリーへの参戦から退いたが、
モータースポーツ関係のショップを経営するかたわら、
後進の指導やチームマネージャーなどラリー参戦のサポート活動をしている。
今回はラリーへの情熱を片岡良宏氏にうかがった。

ナンバー付車両で競技ができるんだ!

 子どもの頃からレースは好きでテレビの富士GCやF1中継を一生懸命見ていましたが、ラリーは全然知りませんでした。高校3年の5月で18才になるとすぐに免許を取り、夏休みにはクルマを乗り回してましたね。当然シャコタン、ワイドタイヤ仕様(笑)。最初はセリカ、次にケンメリのスカイラインで峠を走っていました。まぁ、本当にその辺のオニイチャンですよね(笑)。
 大学一年の時にバイト先の先輩でラリーに出ている人がいて「走ってみないか」と誘われて行ったのが宅地の造成地。クルマが横に流れるのが面白くて、夢中で走っていたら「お前、イケるよ」といわれまして、これが悪魔の囁きでした(笑)。その時、ナンバー付車両で競技ができるラリーを初めて知ったんです。普段乗ってるクルマでモータースポーツがやれるというのは感動でした(笑)。“シャコタンに乗ってる場合じゃないぞ!”(笑)と早速KP61スターレットに乗り換え、先輩にショップを紹介してもらい、ラリーの世界に入ったんです。 

絶対にWRCを走る!

 当時は“一日一回はダートを走る”と決めて週に7日、時間が無い時は近所のあぜ道を走ってでも練習してました。ガソリン代が月13万円(笑)。“やるとなったら、徹底的にやりたい”という性格なので、全日本ラリーもろくに出れていないのにWRCのビデオを見ては“いつか絶対これに出る”と信じていましたね(笑)。デビューは練習ラリーに1〜2回出た後、いきなり全日本の鳥海ブルーラインラリー('82年10月)。ここでの6位に自信を付け、そのまま全日本選手権に参戦していきました。
 3年目には借金も増えてきて“この一年で結論を出そう”と決め、がむしゃらに走りました。その時「ウチから全日本に出ないか」と声をかけてくださったのが、カーショップマツモト(現株式会社レイル)の松本社長。そこで働かせていただきながら、ラリーに参戦できるようになり“お店に恩返しをしなければ”とますます頑張りましたね。ただ、当時は成績よりもSS(スペシャルステージ)のベストタイムに熱くなって、SSで10本中7本トップを取りながらもラリーは勝てないという走り方でした。
 32才の時、独立を申し出たら「お前、海外ラリーに行きたいといってたな」と辞めて行く人間をWRCニュージーランドに連れて行ってくれたんですよ。これが初めての海外ラリーになりました。“日本人はロングSSは獲れない”といわれていた50キロ以上ある名所「MOTU」というSSでベストタイムを出せたんで、みんな喜んでくれました。自分としては“これは、オレのためのコースだ!(笑)”と思うくらいに得意なコースでしたね。その後、タスカエンジニアリングから海外ラリーに参戦できるようになり、'96年のアジパシで、この年から始まった初代グループNシリーズチャンピオンを獲得することができました。SSベストタイム集中からシリーズ全体を考えて走るようになった年で、自分自身ドライバーとしての転機ともなりました。
 '97年から日本人としては数少ないグループAで走らせていただけるようになり、総合優勝2回と'98年と'99年連続シリーズ2位となりましたが、もっと上に行きたいという気持ちと裏腹に、努力する割に伸びない自分に納得できず、'99年に一線を退く決意をしたわけです。


海外ラリーの経験を活かして。

 昨年7月、中国「六盤水ラリー」に出場しました。中国ラリー選手権に参戦している大先輩の大庭誠介先生(本誌'02年8月号参照)から『チャンピオンがかかった国内戦と重なったから代わりに走れ』とのことでスポット参戦。コ・ドライバーにはかつて一緒に走った林哲君にお願いして、結果N2クラス優勝。海外で走るのは5年ぶりだし、クルマもポロは初めてだし、どうかなと思いましたが、レッキで3キロ位走ったら慣れまして『まだまだやれるな』と思いました(笑)。
 今、会社の経営もしているのですが、ラリーの厳しさの中で得た経験は他の仕事にも共通して活きています。ラリーは自分にとって人生の道しるべのようなものですね。振り返れば、本当に多くの皆さんの力添えがあって成し得たことだと感謝しています。そうして、今度はこれからの人に自分が得たものを伝えて行くことが自分の役割だし、それがラリーの発展に役立てば、お世話になった方への恩返しだと思います。日本でのラリードライバーは未だ趣味の延長という存在ですが、海外ではプロドライバーがたくさん活躍しています。小さな子どもが“ラリードライバーになりたい!”と憧れるくらいに地位を向上したいですよね。







片岡 良宏(かたおか・よしひろ)
1961年生 神奈川県出身

81年、ラリーデビュー(KP61)。'82年、全日本ラリー選手権参戦、クラス6位入賞。その後、三菱ランサー
(A175A)、トヨタ カローラ(AE82)、トヨタスターレット(EP71)と乗り継ぎ、'87年からタスカエンジニアリング率いるチームより三菱ミラージュで参戦。その後もギャランVR4、ランサーEvo1からランサーEvo6まで三菱車をドライブする。海外ラリーは'94年、世界ラリー選手権(WRC)「ニュージーランドラリー」初参加。'95年、WRC「ニュージーランドラリー」「RACラリー(英国)」の2戦に参戦。難コースで有名な英国「RACラリー」では初参加で総合11位クラス3位を獲得し注目を集める。'96年、アジア・パシフィックラリー選手権(APRC)プロダクションクラスでシリーズチャンピオン獲得。年末には世界中のチャンピオンを集めて行なわれる「レース オブ チャンピオン(スペイン)」参加。'97年よりグループA車両に乗り「'98年タイラリー」と「'99年キャンベララリー」総合優勝。シリーズチャンピオンシップシップでは'98年、'99年連続APRC2位を獲得。'99年、ラリードライバーとしての一線は退くが、国内レース等には現在も参加。また、チームマネージャーとして国内ラリー、海外ラリーにも参戦しチームに関わり、ドライビングインストラクター等も務める。有限会社セルバ(モータースポーツパーツや車両販売)代表。http://www.selvasports.com

 


 
  '98年 WRC/APRC 「ラリー ニュージーランド」
総合8位

  昨年、中国国内選手権の「六盤水ラリー」にスポット参加。海外ラリーは5年ぶりにもかかわらず、見事N2クラス優勝を獲得。ドライバーとしての実力はいささかも衰えず、その健在ぶりを証明した。左は現役時代にもコンビを組んでいたコ・ドライバー林哲氏。  

  '99年 APRC
「ラリー オブ キャンベラ」 総合優勝
 


  '99年 WRC/APRC
「ラリー ニュージーランド」
 
 
 

 

'70年代からエンジニアとしてグランチャンマシンやF2の設計・製作に携わり、
'77年には高橋国光選手のチーフ・エンジニアとしてF1に参加するなど
日本のモータースポーツの頂点で仕事をしてきた舘内端氏。
その一方で現代のクルマとクルマ社会を批評するモータージャーナリストとしても活躍、多くの本を出版している。
モータースポーツの第一線で活躍してきた舘内氏が
エンジンからEV(エレクトリック・ビークル)へと軸足を移しはじめたのが'90年代初頭。
'94年には日本EVクラブを設立し本格的な活動に入る。
その視点は単にEVの環境負荷や省エネではなく、その向こうにある重要なテーマを見据える。
今回は舘内氏にお話しを伺い、2回にわたってご紹介する。


自分でクルマを造りたい。

 中学2年の時にポンコツ屋から拾ってきたエンジンでゴーカートを造りました。ステアリングとかはオモチャ屋でペダルカーを見て参考にして本当に手探りで。学校の帰りに毎日親戚のおじさんの所に寄って、地面に図面を描いて溶接してもらうんです。それで町中を走り回りましてね。その正月の日記に『レースのバイクかクルマを作ることを職業にしよう』と書いたんです。私の人生はそこで決定しましたね(笑)。どうしても自分でクルマを作りたかったんで、大学に入る頃には真剣に考えて、エンジンを作るよりも、車体のほうがお金がかからず(笑)自分で作れそうだと思い車体に行くことにしたんです。
 卒業する頃には日本のレースも盛んになってきてプライベーターが自分で車作りはじめるんです。ただ、それはお金にならなくて生活ができない。ちょうどベルコが出来た時で、それを雑誌でめざとく見つけて『これならレーシングカーを作りながら給料を貰えそうだ』と(笑)。それでレースの世界に入っていったわけです。

次の時代の人を育てたい。

 数年すると、オイルショックで先行きが不安定になって、ベルコもレーシング部門の人員削減になってしまうんですね。辞める前から雑誌に原稿書き始めていて、原稿料で生活ができるくらいになっていたんで、'77年にジャーナリストとしてフリーになる決心をしたんです。稼ぐのは原稿、実際に体を動かしているのは、いろんなチームに行ってレーシングカーの設計をしたり、レースの時に車の調整をしたりという仕事がでてくるんですね。 
 その頃SRE(ソサイアティ・オブ・レーシング・エンジニアーズ)という勉強会を始めたんです。当時から常に次世代の人を育てたいという気持ちがありまして、学生にレーシングカーの事を教え、作って、走って、楽しもうとフォーミュラSREというのを実際に作らせたんです。JAFのほうでも入門クラスのフォーミュラを模索していたところで、これをベースにFJ1600が生まれていくんです。
 その後は高橋国光さんとF2を5年間ぐらいやりながら、GCもやり、フォーミュラSREがFJ1600に成長していく手伝いをしたり車の相談受けたりで、底辺でFJ1600、トップでF1、真中でF2とGCみたいな事をやっていました。その頃は、ガソリンエンジンガンガンの時代ですね。

ポストモダンとの出会い。

 '80年中ごろになると、ポストモダン論議みたいものが出てきて、僕の原稿もそんな視点で車を切っていくと何が見えるか、自動車の文化的な位置付けみたいな話になっていくんです。NAVIの創刊時に「ポストモダン近代主義批判を非常にユニークにやられているんで、是非」ということでナビトークという連載が始まるんです。その中で資本主義の高度情報社会の中で情報としての自動車というのが見えてきたんですね。
 僕も早くから地球的な問題には気付いていました。成長の限界っていうローマクラブの報告書やレイチェルカールソンの「サイレントスプリング」。その方面の勉強をしていて、文明論的に自動車を批評していくと今度は近代という文明の問題に行き着くんですね。自動車が存在しうるのはなぜかと言うと、近代文明があるから。で、「自動車の問題って何」と見ていくと、それは近代文明の問題なんですよ。「近代文明って何」と考えていくと、ポストモダンにぶつかってくる。でもポストモダンの旗手達も近代をどう越えていくかとなると越えられずに閉塞状態に入っていくんです。

自分の体に回帰していく。

 ナビトークを始めた80年代の真ん中以降から「相当まずいぞ」いうのを感じて、それが大きな問題として僕の中に住み着いちゃうんですよ。その時に出した本が「2001年クルマ社会は崩壊する」でその時に現在の状況を言い当てているんですよ。でも、ポストモダンの諸先生方と同じように近代をどう越えていくかということに行き詰まって、その時に僕は自分の体に回帰していくんです。ポストモダンが言っていたのはね、「頭じゃないぞ」っていうことですが、「頭じゃないぞ」っていうのを頭で言っていた(笑)。僕は「頭じゃないんだったら体だろ」って、それも自分の体以外ないぞって、頭じゃなくて自分の体で知ろうっていう行動に出たんですよ。
 自動車は移動の媒体だと言うことで、移動の原点に立とう。人間はなぜ車を発明したのか。車を発明する前は何だったのか。それは歩いたんだと。馬に乗る前も歩いた。だとすれば移動の原点は歩くことじゃないかということで、92年の10月に日本橋から鈴鹿サーキットまで470kmを歩くんですよ、2週間かけて。そのことが、大きなことに気付かせてくれる契機になったんです。(以下次号)




 
舘内端(たてうち・ただし)
1947年生 群馬県出身


日本大学理工学部卒業。
東大宇宙航空研究所勤務の後、レーシングカーの設計に携わる。
現在は、テクノロジーと文化の両面から車を論じることができる自動車評論家として活躍。「NAVI」「JAFMATE」等、連載多数。 行政の各種の委員もこなし、低公害車の普及をボランティアで促進している。1998年、環境庁長官より感謝状授与。日本EVクラブ代表。
「胸をはってクルマに乗れますか?―美しい自動車社会を求めて」(二玄社)、「すべての自動車人へ」(双葉社)、「ガソリン車が消える日」(宝島社新書)、「クルマ運転秘術−ドライビングと身体・感覚・宇宙―」(勁草書房)など、著書多数。

 


     
    '77年富士スピードウェイで開催された第2回F1GPに高橋国光選手のチーフ・エンジニアとして参加。この時、高橋選手は9位。この成績は中島悟選手が4位に入る時まで、日本人のF1最高位となった。また、このレースでは2台のマシンが接触し観客席に飛び込んでしまうという大きな事故があったレースで、直後を走行していた高橋国光選手は危機一髪でこの事故を避けたという。写真中央が舘内氏。  
  '94年3月、自費でEVフォーミュラカー「電友1号」を製作。米国フェニックスで開催されたEVレース「APS Electric 500」に参戦し、3位入賞。その後、同年10月に日本EVクラブを立ち上げる。ドライバー林哲氏。  
 
舘内氏近年の著作。
 
     


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