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日本のモータースポーツの頂点で仕事をしてきた舘内端氏が80年代から感じてきたことが、
永遠に「進歩」「拡大」すると信じてきた近代の行き詰まりだった。
このままでは社会の存続すら脅かしかねないという危機意識は
ポストモダンという流れの中でより明確になっていく。
しかし、近代を超えるための方法が見つからないというジレンマによって、
ポストモダンの潮流自体も行き詰まりを見せる。
そうした中でご自身の専門であるクルマの目的「移動」ということの原点に戻り、
自らの足で歩くことを決意。
そして近代を超える武器としてEVに出会う。

時速4kmの価値観。

 80年代の後半、レースをやっていた僕の前に壁として立ち現われたのが「進歩」「拡大」「商業主義」という近代の価値観で、それを追う故に感じた行き詰まりは、近代の問題の縮図でもあったんです。それで、原点に戻ろうと日本橋から鈴鹿サーキットまで歩いた。当時、鈴鹿でFM放送の解説を担当していたんで、F1の予選が始まる時に着くように仕組んだんです。で、時速4kmで歩いてきた視線でF1を相対化して見た時、僕の意識が大きく変わった。最速が最上の価値ではない。時速300kmの方が優れているのではなく、時速4kmの価値観があるということに気付いたんです。「時速1kmや2kmを競うことなんかどうでもいいじゃん」っていう(笑)。そこで近代の価値観の中にある自動車やモータースポーツの解体を自分の中で始めるわけです。ここを解体しないと人類は生き延びられないということが歩いてみたらよくわかったんです。
 じゃあ、近代文明の問題は自動車で言えばどこにあるのか。それを知るにはエンジン車を外から見て相対化する視点を持つ必要がある。でも、エンジン車しかない時代で誰も外から自動車を見たことがない(笑)。その頃、僕はちょうどEVフォーミュラの「電友一号」を作った。乗って感じたのは「EVは近代の価値観を変える力を持っている」ということで、僕はEVをエンジン車を相対化するもう一つの自動車として位置付けることができたんです。EVに視点を置くと近代文明の問題がかなり明確に見えてきた。僕の批評のパワーの源はそこにあるんですよ。 

使えるように使え。

 EVについて「車速や航続距離は」「充電インフラは」「実用になるのか」と質問する人がいますが、それは近代の論理なんですよ。これに対する僕の答えは『使えるように使えばいいじゃん』ってこと。ガソリン車だって使えるように使ってきた結果が現在の社会ですからね。ほとんどのEVエンジニアがEVをエンジン車の視点で代替として見ている。だから必死になってエンジン車に似せようとしてるわけ。エンジン車が1回の給油で300km走るならEVだって300km走らなけりゃいけないって思っちゃうわけですよ。そんなことは無い。僕らを破壊に導いているのはガソリンを一杯入れて、全開でビュッて走って目的地に行くという、その生活スタイルです。それを変えなきゃエンジン車にEVが取って代わったってなんの解決もない。問題は僕らがもう違う生活をしなければいけないってことなんです。EVで充電に2時間かかるなら2時間なりの社会にすればいい。EVを変えるんじゃなくて、EVが受け止められて普及していくような価値観の社会に変えるということが課題なんです。でないと、僕らは生き延びられないんですよ。
 だから、排ガスやCO2を出さないからという単純な話ではなく、EVは近代を超えるための起爆剤だということなんです。近代論理を超えていくものがあるから僕はEVをやるし、近代論理を超えていくような方法でやる。でなければEVをやる意味が無いと思っていますね。


持続可能な車社会の構築へ。

 電気自動車を研究する有識者の会に招かれたことがあって、まず「EV乗ったことある人」。誰もいない(笑)。「EVを作った事がある人は?」。一人もいない。日常でEVを使ったことある人もいるわけないよねって。「じゃあ何を研究するの?僕らはもうEV作って走って、ナンバー取って使ってるよ」って言ったらシーンとしちゃって(笑)。
 EVの場合、重要なのは研究するんじゃなくて実践していくことなんです。EVはガソリン自動車に比べると、シンプルでローテクなんですよ。研究しなくても作れる。パソコンや電気製品だと秋葉原へ行けば部品が全部手に入るから作れるでしょう?あんな感じ。トライアンドエラーの繰り返しで、やってみて悪かったら改良するっていう簡単な論理なんです。走らないなら走るようにすればいい。それでEVをどんどん作る、がんがん乗る、その中でEVを知っていく。知識と技術は必要ですけど、逆に言えば知識と技術さえあれば材料はいくらでもある。それが電気自動車なんです。EVクラブの創設はその流れの中にあるんです。エンジンだとそうはいかない、というのが実は20世紀の構造だったんです。
 昨年からは世田谷区の教育委員会と協力して区内の中学生を対象にEV教室をスタートしました。月1回、全7回の教室を通して自分たちでEVを組み立て、乗るという体験をしてもらいました。今年の教室ではハイブリッドカーを作って、12月には中学生がメーカーのような発表試乗会をする予定です。持続可能な車社会の構築には20世紀の価値観から抜け切れない大人ではなく、やはり子どもが大事です。だってこれからは彼らの時代ですから。自動車と自動車社会の未来の礎作りに少しでもお手伝いができれば大いなる喜びです。







舘内端(たてうち・ただし)
1947年生 群馬県出身

日本大学理工学部卒業。
東大宇宙航空研究所勤務の後、レーシングカーの設計に携わる。
現在は、テクノロジーと文化の両面から車を論じることができる自動車評論家として活躍。「NAVI」「JAFMATE」等、連載多数。 行政の各種の委員もこなし、低公害車の普及をボランティアで促進している。1998年、環境庁長官より感謝状授与。日本EVクラブ代表。
「胸をはってクルマに乗れますか?―美しい自動車社会を求めて」(二玄社)、「すべての自動車人へ」(双葉社)、「ガソリン車が消える日」(宝島社新書)、「クルマ運転秘術−ドライビングと身体・感覚・宇宙―」(勁草書房)など、著書多数。

 

写真はすべて、
PHOTO BY KOJI MIURA〈CRACKER STUDIO〉


 
  これからを担う子ども達にEVを積極的に体験させるため、'05年から世田谷区の中学生を対象にEV教室を開始。子どもたちが組上げたEVフォーミュラ『小電友』は同年11月の日本EVフェスティバルで津々見友彦氏のドライビングにより優勝、子ども達の喜びは絶頂に達した。「初めて運転したカート、最初に触れて作って乗った車、さらに自分で最初に観たレースが全てEVという子どもが昨年28人生まれました」。

  ,94年に設立した日本EVクラブでは同時に「実践していこう」という主旨で手作りEV教室も立ち上げ、た。50人の募集に250人が集まり、マツダの協力で提供されたユーノスをEVにコンバート。取り外したエンジンと搭載するEVパーツの量の違いに参加者は驚いたという。現在、クラブ員の手によってEVにコンバートされた車は全国に約200台。ナンバー取得をしている車両も多い。社会の変革は市民レベルで着実に広がっている。  

  “充電インフラがないからEVは普及しない”という意見を論破すべく実施されたプロジェクトが「2001年充電の旅」。EVにコンバートしたベンツAクラスで12279kmを走破。充電回数621回。全国サポーター1521人の協力を受けて“コンセントはどこにでもあるし、新たなインフラなど必要ない”ことを証明。「本当に盛り上がりましたよ(笑)」。
日本EVクラブ公式ホームページ http://www.jevc.gr.jp/
 


     
 
 

 

'レーシングドライバーのほとんどが男性という中で、
80年代末から常にトップドライバーとして活躍してきた女性ドライバー、佐藤久実氏。
他のスポーツでは男女が別れて行う種目がほとんどだが、
レースの世界はまったく同じ条件で戦うことになる。
当時のツーリングカーのトップカテゴリー、グループAにも参戦、
'96年のN1耐久ではシリーズチャンピオンに輝く。
ニュルブルクリンクやスパフランコルシャン24時間耐久など海外レースにも参戦。
'05にはニュルでクラス2位を獲得している。
国内では'01年のGT選手権を最後に第一線を退き、
現在はレース経験をいかしてジャーナリストやドライビングスクールの講師として活躍している。
今回は佐藤久実氏にお話しをうかがった。


自動車部に入部。

 私は大学に入る時にクルマの免許をとりましたが、モータースポーツには全く興味がありませんでした。ごく普通に免許をとって、当時のいわゆるハイソカーなんていうクルマに乗ってみたいなあ、なんてミーハー的に思っていたくらい(笑)。大学に入学したらクラブへの勧誘があって、自動車部に誘われたんです。とても優しい先輩に誘われて、断りきれず入部したというのが本音で、免許を取ったばかりでウマクなりたい、というくらいの気持ちはありましたがクルマで競技をしたいとか、全然思ってなかったんです。
 大学は薬学部だったんですが、それも母に『手に職をつけておけ』といわれるがままに決めたことで。ですから、いわれるまま大学に入って、誘われるままに自動車部に入ってと、それまではさほど自分の意志がなくきてましたね(笑)。それでもちゃんと卒業して国家試験も受けて薬剤師の免許も持ってますよ。こちらはペーパードライバーですが(笑)。
 大学自体、女子学生の割合が多かったので自動車部も女性部員が半数くらい。活動の中心はラリーで、当時学生はほとんど計算ラリー。入部当時はもっぱら後部座席で下を向いて計算してました(笑)。それでもラリーやクルマの運転には興味が湧きはじめていました。。

初のレース観戦は
“全然面白くない”

 初めてレースを見たのは入学した年のゴールデンウィーク。レースのことは何も知らないまま先輩につれられて富士のグランチャンを観にいったんです。その時は、車もドライバーも知らないし、耐久だったので順位もよくわからない。同じところをグルグル回るだけだし、広いサーキットを一日中歩き回って疲れるし“全然面白くない”って思ったんですよ。興味がないとそんなもんですよね(笑)。
 ところが、自分でレースに出るチャンスが回ってきたんです。たまたま女性だけのワンメイクレースっていう企画があって「面白いから出てみれば」って誘われたんです。クルマもタイヤも主催者側で用意してくれてあって、エントリーフィー5万円だけ払えばOKなんです。バブルが始まるころで景気も良かった時代ですよね。じゃあ、一生に一度くらいレースに出てみようかと、ライセンスをとってスーツを用意して参加したんです。
 まわりは女性ばかりでほとんど素人。私はクラブ活動でダート走行をしたり、先輩とサーキット走行も経験して少しは知識があったので、デビューレースで3位に入賞。いきなり表彰台でシャンパンファイトですから、これで夢中になってしまいました(笑)。一生に一度のつもりが「レース走り続けたい!」っていう気持ちになったんですね。

レースへの志。

 サーキットもレースを何も知らない頃は、同じところを回るサーキットはラリーに比べると大したことはないと思っていましたが、いざ走ってみるとその奥深さと面白さに取り付かれてしまいました。当時まだ学生でしたから自分で車を買ってまではできませんから、そのレディースレースのインストラクターに頼み込んでチームに入れていただいたのが、本格的にレースを始めるキッカケになりました。
 そこはプロとしてやっているチームで、1シーズンごとに新車にするんです。それで中古のレーシングカーがいっぱいあったので、それをレンタルしたりとか、チャンピオンチームの後ろ楯をいただけたので、最初の頃から少ない予算でレースができる様になりました。今だったら結果も無いし名前も出ていないのにサポートしてもらえるなんてあり得ませんよね(笑)。そういうチームに面倒をみていただけたのは本当にラッキーだったと思います。
 学生時代にレースにデビューしてワンメイクを走るようになって、最終目標はグループAを目指すようになりました。でも、試験期間にぶつかったりすると走る時間も限られてしまい、勉強もレースも中途半端になって不完全燃焼だったんですね。だから就職の時には役員面接で“就職してもレースを続けるけれどかまわないですか”なんて平気で聞いてたんですよ(笑)。でも、当時はレースウィークも長くなり、土日だけでなく火曜日頃からサーキットに入るなんていうこともありましたから、とても休みを貰っての参戦ではできないんですよ。学校は自分の責任だけですけど、仕事になったらサボれないですからね。それで、卒業の年には内定していた就職を辞退して、チームの会社に入れてもらったんです。自動車部のメンバーはほとんど卒業まででモータースポーツから離れていきますが、私はどうしても続けたかったんです。それは初めて自分自身ではっきり持った志だったんだと思いますね。(以下次号)

 

佐藤 久実(さとう・くみ)
1965年生 東京都出身

大学在学中にレーシングドライバーとして活動を始める。ワンメイクレースや耐久レースをメインに、海外の24時間レースにもチャレンジしている。レースで培ったスキルをベースに、ジャーナリストとしてのクールな視点、女性の視点からクルマを評価。自動車専門誌への執筆やTV出演をしている。また、ドライビングインストラクター、大学非常勤講師も務める。
日本自動車ジャーナリスト協会会員。
日本カー・オブ・ザ・イヤー2005-2006選考委員。

 


  '90年からN1にも本格的に参戦、チームオーダーによりマシンはGTR。「それまでシティでは筑波のストレートでも160キロくらいだったのが、一気に富士のストレートで260キロとか出るわけですよ。最初はもうピットサインも見てる余裕がないくらい。でも、このGTRでパワーやスピード、さらに高度なコントロールのスキルが身に付いたので、グループAやGTにも乗れたと思います。シティが基本の教科書とすればGTRは上級の教科書だったと思います」('92N1耐久シリーズ)


 
   

 
  'レース参戦3年目に1300ccクラスのプロダクションレースに参加。マシンは初めて自分用のレーシングカーとして新車から造ったシティ。「うれしかったですね。でもシビックからの乗り換えにシティ・・って思いもありました(笑)」しかし、このシティの素直な特性は佐藤氏のスキルアップにとって重要な役割を果たした。「まさにFFの教科書のようで、スキルアップにはクルマの特性も重要なことを認識しました」
('90年東京プロダクションカーレースシリーズ)


 
 
'87年、レースデビュー当時。
まだ大学在学中だった。

 
  N1耐久を走りながら、目標だったトップカテゴリー、グループAにも参戦。
('92年 全日本ツーリングカー選手権)
 


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