レーシングドライバーとしてスーパーGT、スーパー耐久で常にトップ争いを展開する傍ら、
ライターとして多くの雑誌に連載をもち、テレビやラジオといった媒体でも活躍する木下隆之氏。
本業はキッチリとレーシングドライバーに置きながらのライター活動は、“モータージャーナリスト”という肩書きではなく自称“自動車伝道師”。
また、チャレンジングな事で有名なニュルブルクリンク24時間耐久レースには今年で16年目の出場を予定。
今回はライターとして、またドライバーとしてニュルにかける思いなどをうかがった。

クルマ好きのスタンスで。

 本業はレーシングドライバーですが、ライターと半々でやってます。肩書きを見てよく「“自動車伝道師”って何ですか?」ときかれます(笑)。普通はモータージャーナリストになるんでしょうけど、僕の場合はジャーナリストとして大上段に語るより、常に“一人のクルマ好きでありたい”と思っていて、そのスタンスから“自動車伝道師”と自称しているんです。ジャーナリストというとクルマそのものだけでなく、社会的に見てどうだとか、批判的な視点にならざるを得ないことも多いですよね。僕はそういうスタンスじゃなくて、クルマ好きとして「このクルマ楽しいよ」とか、そういう方向で常にお伝えしていきたいと思ってるんです。だから時々『ジャーナリストの原稿なのに、いつも褒めてるよね』っていわれますが(笑)、僕の原稿はいつも世間的にどうこうというよりも、“僕はこう思った”っていう自分が中心にあって、僕がこう感じた、ここはいやだったというのを書くことにしているんですよ。
 クルマには何かしら良い所があるはずなんで、良い所が伝わってくれば、良い所をお伝えしていくんです。それは自分がクルマ好きなので、仲間と喫茶店で話したりお酒を飲む時に“今度のクルマよかったよ”って熱く語ってる感じです。その“こんな楽しいよ”っていうのを友達だけじゃなくて多くの人に喋りたくてしょうがないという延長で、ライターをやっているんです。だから僕はジャーナリストではなくて、自動車伝道師と呼んでいただきたいんです(笑)。

原点は“恐いこと”。

 魅力を感じるレースはやっぱりニュルですね。世界一過激で危ないコース。GTやフォーミュラだと、ともかく前のクルマを抜いて前に出る走りが重要です。スーパー耐久はいかにクルマにストレスかけずに、きれいに走るかが要求される。ところが、ニュルはいかに“命知らずか”っていうのが重視されるんです(笑)。僕の中ではこの3つがないとどうも成り立たないんですね。
国内チャンピオンだと「あいつ上手いね」っていわれるけれど、ニュルで上位を走ると「クレイジー!」っていわれるんですよ(笑)。そういう見方が面白いんですね。
 その昔、レーシングドライバーは命知らずだったし、僕も最初レースをはじめた頃には、あいつよりアクセル踏んでやるぞっていう気持ちだったのが、プロになると、きれいに運転したり、計算して走るようになって、恐いと思うことがなくなるんですよ。でも原点は“恐いこと”なんだなっていうのがあって、それをニュルが満たしてくれる。恐怖に打ち勝って行けば行く程速く走れるというコースなんで、危険な感覚を満たしてくれるんですよ(笑)。オリンピックのボクシングではなく、裏路地でストリートファイトしている感じ。日本では、安全性の面とかでああいうコースはできないですね。ある意味、峠みたいなコースですから、安全はほとんど考えられていないですね。
 国内ではプロとしていい仕事したな、という達成感はありますが、ドキドキしたり恐いとかはないんです。それだけだともの足りなくて、上手く運転することと、一人の走り好きとして誰よりも過激に恐いもの知らずでいくこと。それがないと、どうもストレスがたまってしまうんですよ(笑)。だから、その刺激を求めて、また参戦したくなるんです。


期待するのは“尖ったクルマ”。

 これからもクルマは個性的であって欲しいですね。メーカーも商売だから売れるクルマを出すっていうのはしょうがないことだし、コストの関係でメーカー同志が同じ部品を使って、よく見たら違うのはボディだけっていうようになってきていますが、どれに乗っても同じというのでは寂しいですよね。だから、尖ったクルマ、それは開発ドライバーの視点でいえば、性能や走りのフィーリングだし、一方のクルマ好きの視点からいえば、形でも色でもなんでもいいんです。個性豊かであれば、ミニバンでも軽でもいいし、ガソリンエンジンでも燃料電池でもいい。基本的には乗ってみたい、と思えるクルマですよね。何の変哲もないクルマだったら乗ってみたいと思わないですからね。
 やはり“憧れ”がクルマ好きを引っ張って行く原動力だと思いますから、“憧れ”を刺激する個性の豊かなクルマをどんどん作ってほしいですね。







木下 隆之(きのした たかゆき)
1960年生 東京都出身

学生時代からダートトライアル、ジムカーナ等のモータースポーツに参加し数々の優勝を飾る。特にジムカーナでは東日本学生チャンピオンに輝いた。1984年富士フレッシュマン(P1300・KP61スターレット)のデビューレースを6位入賞で飾り、2度めのレースでポール・トゥ・フィニッシュ。同時にコースレコードを叩きだした。レース活動の他に、多数の自動車雑誌および一般男性誌に執筆。連載レギュラーページを多数持つ。日本カーオブザイヤー選考委員および日本モータージャーナリスト協会に所属。また、wowow等でテレビ解説など多数に出演。株式会社木下隆之事務所代表取締役。
 
  ライターとして抱える連載記事は「タワー3階(オートスポーツ)」、「愛の直列12気筒(ドライバー)」、「23時59分からの逆襲(ジェイズ・ティーポ)」、「驚愕・スバナマン(いじりんぐティーポ)」など多数。「いきなり『僕はこう思う』なんて言っても仕方ないので、自分のキャラをまず理解してもらって、その木下が『こう思う』というところを伝えていくようにこころがけています」。
http://www.cardome.com/keys/op03.shtml
 
 
  (写真:'05年ニュルブルクリンク)
 
  (写真:'06年ニュルブルクリンク)

“恐さ”の中を走るという原点を“一人の走り屋”として実感すべく参戦を続けるニュルブルクリンク24時間耐久レース。2001年には日本人最高予選グリッド、日本人最高ラップタイムを記録。04年は総合5位、クラス優勝を成し遂げる。日本人最多出場、史上最高タイム、史上最高リザルトを保持する日本のニュルマイスターとして今年16年目の参戦となる。
 
 
  (写真:#11''03年ジアラランサーEVOVIII)

スーパー耐久では中谷明彦選手とともに'03年'04年とクラスチャンピオンを獲得、'05年には惜しくもチャンピオンを逃すが、'06年は再びチャンピオンを獲得しリベンジを果たした。
 
  上手く運転することと、誰よりも過激に恐いもの知らずの走りができること。「その両方が自分には必要なんです」。(写真:’04年GT選手権にて)
 

 

クルマ好きというベースから派生するミニカー趣味や模型趣味。
そうしたミニチュアを扱いながら、単なる模型・ミニカー専門誌とはスタンスを異にする
“クルマ好き”専門誌として誕生したモデル・カーズ誌(ネコ・パブリッシング発行)は
創刊から今年で21年目を踏み出している。
当初年1回の発行でスタートしたモデル・カーズも、季刊、隔月刊と発行間隔が短くなり、
'00年からは月刊誌として発行されている。
また、WEBとのコラボレーションも積極的に展開。
今回はネコ・パブリッシング本社に編集長の長尾氏を訪ねた。


ブームは来たけれど。

 僕が子供の頃住んでいたのは東京とはいえ世田谷区のはずれで、当時まだクルマを持っている家が少なかったんですよ。だから、クルマへの憧れも強かったし、男の子はみんなクルマ好きでしたよね。駅に行くまでの道で“あそこの地主さんの家はコンテッサ、お医者さんのとこはワーゲン、八百屋さんはトヨエース”なんていうふうに、どの家に何のクルマがあるのか全部言えるくらいでした。それぐらいクルマのある家は少なかったんです。
 小学校高学年の頃から、時々カーグラフィックを見るようになりました。もちろん、毎月買うことはできないんで、出かけた時に親に買ってもらうっていう程度でしたけれど、それでもいっぱしに“ジャガーEタイプは手が出そうも無いけど、ヒーレースプライトならなんとか手が届くか”なんて考えてる子供でした。だから、中学校の頃に来たスーパーカーブームの時には、昨日までスバルとワーゲンの区別もできなかった子たちまで“ベルリネッタ・ボクサー”だの“ディノ”だとか、したり顔で話してるのを聞くと「君たち、急に何言ってんの?」っていう感じで許せませんでしたね。今でいえばクルマオタクだったかもしれません(笑)。そんな風にスーパーカーブームは好きになれなかったけれど、もちろんマンガだけは全部読みました(笑)。

スーパーセブン。

 うちは両親とも運転免許がなくて、家にはクルマがありませんでしたから、学生の時にバイトして免許は取ったものの、すぐに乗れるクルマがなかったんです。最初に買うなら、オープンツーシーターと思っていたので、中途半端なクルマは買わないで、まず頭金を貯めるために普段の足は250ccのバイク。当時、面白いバイクが沢山出ていた時代で、バイクにも心は動いたんですが、そっちに行くと絶対ハマるのが分かっていたので、クルマを買うためにバイクは面白くないけれど安くてランニングコストが低い実用に徹した車輌を選びました。
 就職してからもずっとお金を貯めて、なんとか100万円近くになり、そろそろと思っていた時に会社の先輩から「セブンの出物があるから見ないか」って誘われたんです。想定していたより高いクラスだったのでセブンは考えていなかったんですが「見るだけならいいだろ」とか言われて見にいったら「ちょっと、乗ってみる?」って(笑)。で、「どうだった?」「ええ。いいですねぇ(笑)」。「維持できなくなったら手放しても値落ちが少ないし、大丈夫だ」なんて囁かれて、当時、最長のローンを組み、結婚の予定を一年半延ばしてまで手に入れたのが、このセブンなんですよ。

長く楽しむ。

 手に入れてからもう22年になりますが、飽きずに乗ってます。僕はズボラなんですが、そういう方が趣味が長続きするのかな、と思ってます。真剣にやって長続きしている人に怒られるかもしれませんけど(笑)、当時僕と同じ頃にセブンに乗りはじめた人が何人かいたんですが、5年、10年したらみんな他の車に行ってしまったんですよ。毎日アルミのボディを磨いてピカピカにしていたり、ガンガンのカスタムをして凄いクルマに仕上げたりして、かなり入れ込んでた人たちだったんですけどね。でも、入れ込んで突っ走りすぎると息切れがして『イヤー、セブンはもういいかな』とか『セブンは楽しかったけど、疲れるよね』とかいって降りてしまうんです。
 考えてみると、初めは右も左もわからないけど面白そうだからやってみよう、ということで始めるわけですよね。そうして少しずついろんなことを発見し、覚えながら楽しんでいくんです。だから、一気に突っ走って頂点まで行ってしまうと、そこで終わってしまって、長く続けられない。自分だったら、ポキンと折れてしまいますね(笑)。
 それは、今の雑誌づくりの中でも思っていることで、肩の力を抜いて、趣味なんだから突っ走らないで長く楽しみましょうと言いたいんですよ。専門誌ですが本当に一部の頂点を極めた人たちのためだけでは同人誌になってしまうし、かといって初心者だけでは専門誌の意味がない。そこで、ある程度のレベルを持った専門誌としていいバランスで編集し、長く楽しめることを目指しています。(以下次号)

長尾 循(ながお・じゅん)
1962年生 東京都出身

クルマ関係の雑誌編集の仕事を目指して、グラフィックデザインを学び、雑誌制作会社に入社。その後、出版会社を希望してネコ・パブリッシングに入社。エディトリアルデザイナーとしてクルマ雑誌を中心にデザイン・レイアウトを手掛ける。'97年、モデル・カーズの隔月刊に伴い、2代目編集長に抜擢され、以来10年を迎える。仕事を楽しみながら「長く楽しむクルマ趣味」を実践している。
http://www.modelcars.jp/

 


'85年に最初のクルマとして手に入れて以来、22年になるケイターハム・スーパーセブン。奥さんとの結婚を一年半先延ばして購入したこのセブンは子供さんが生まれてしばらくするまで、長尾家で唯一のクルマだった。「夜中に子供が熱を出して救急病院へセブンで駆け付けたら『あんた、何時だと思ってるの!何、このクルマは!』って看護婦さんに怒られて『これしか無いんです・・・』(笑)。」その後、家族のために(?)ミニ1000、ローバー114、と乗り継いで現在フォーカスのワゴンに落ち着くも、セブンは手放せない。
 
 
 

長尾氏のセブンは'81年式で、OHVのフォード225E、通称ケント・ユニットにウェーバーの40DCOEが2基ついた1600GTスプリント。
 

 
  '95年にモデル・カーズ26号の特集“スタッフの私的クルマ生活”の時に自ら制作した愛車のプラモデル。タミヤの1/24ロータス・セブンをベースに改造したケイターハムと同じくタミヤベースのミニ。「最近は忙しくて、自分で作っている時間がないんです。本では皆さんに勧めてるんですけどね(笑)。それでも小さなコラムを設けて、年に一台は作るようにしてます」。
 
 
  '97年、隔月刊化第1号となった33号。モデル・カーズ生みの親だった平野克己氏(本誌No.347参照)がこの号で勇退。その後を長尾氏が継いで34号から編集長となる。

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