模型・ミニチュアを通じてクルマを楽しむ月刊誌モデル・カーズ。
“クルマ好き”“模型好き”という読者層に支えられる同誌にとっても、
これからのクルマ趣味層の動向は気になるところ。
今回は長尾氏に編集者の立場から感じるクルマ趣味や模型などの状況などをうかがった。

君のうちのクルマは?

 今年中学3年の子供が小学校の頃ですから4〜5年前位かな、友達がウチに遊びにきてたんですよ。たまたま僕も家にいたんで「○○君のウチは今度クルマをボルボに変えたでしょ?」と聞いてみたんです。すると「えっ?」。他の子にも「□□君のウチはクルマは何だっけ。確か、アレだよね」「えーと・・・」という返事なんです。今の子ども達は男の子でも自分の家のクルマのことを知らないし、興味がないんですね。僕達の子供の頃は、例えばブルーバードって言えば男の子ならクラスのほとんどが知っていましたよね。今でもクルマ好きな子もいるんですけど、かなりの割合でクルマに関心のない子が多くなっているようです。
 クルマや模型は子どもたちの通過儀礼のような時代もありましたけれど、今はそれが薄れて、クルマや模型が共通言語では無くなりつつあるという感じがしています。モデル・カーズのスタンスは根っこにクルマ好きというのがあるんで、実車に興味が無くて知らなければ模型やミニチュアをみても興味を引かないと思うんですよ。こういう趣味がなくなることはないと思いますが、ちょっと気になる傾向ですね。
 それでも、少し前の読者アンケートでは、モデル・カーズ読者の年齢層は約7割が20代〜40代で、残り3割が10代と50代以上となっていて、思ったよりは幅広い年齢層に平均的に分布していました。雑誌によってはアンケートの度に読者年齢が上がっていく、なんてきいたことがあります。読者が一定の世代しかいなくて、その層の年齢が上がっていくだけで後がない(笑)。そう考えるとアンケートで見る限りではクルマも模型もまだまだ大丈夫かなと思いました。

60年代〜70年代のクルマ。

 モデル・カーズで取り上げるとウケがいいのは、初代セリカとかロータリークーペとか、60年代から70年代のクルマですね。当時こういったクルマに乗ったり憧れたりした年代の方だけでなく、旧車ブームもあって若い人にもこの年代のクルマがうけるんでしょうね。ここ数年はミニカーでもプラモデルでも新製品としてその年代のクルマのリリースが多いんですよ。現行車種には、憧れ感が少ないですからね。模型そのものにしても、昔は実車に乗っているからその関係のミニカーや模型も集めてますというところでしたが、今は旧車は手に入らないし入っても維持できないから、その代わりに好きな旧車を模型で、というように時代が変わってきているような感じがします。
 そう思うと、初代カローラやサニーが出るか出ないかの時代、これから日本のモータリゼーションが始まるという時代は、その時の“現行車”と“憧れ”がリンクしていた幸せな時代だったのかな、と思います。今は“現行車”と“憧れ”がリンクしませんから、いきおい模型の世界でも現行市販車は少なく、現行車はモータースポーツのジャンルのものとかになってきますね。模型の世界は実車やクルマ趣味の動向をストレートに反映していますから。


紙媒体とweb。

 クルマとは少し話しがそれますが、ネコ・パブリッシングでは趣味のポータルサイトを目指して、「ホビダス」というサイトを立ち上げています。これは、雑誌の提案としてこういうものがやれるんじゃないか、出版社として持っているコンテンツをwebに活かしていこう、という取り組みです。今後、紙媒体とwebは出版の両輪になっていくでしょうね。web制作は別セクションで担当していますが、編集部から「こんなことをやりたい」というオーダーを出しています。モデル・カーズのコーナーは http://www.modelcars.jp/ もしくは「モデル・カーズ」で検索していただければご覧になれます。この中では、ミニカーやプラモデルの通販もやっていまして、思いのほか売れるんですよ。地方だと手に入りにくいモノもありますから、ミニカーくらいの価格なら通販で買ってもいいか、というところでしょうか。雑誌のブランドという点も信頼いただけている点なのかなと思っています。情報も盛り沢山ですので、webも是非一度覗いてみてください。
 モデル・カーズのジャンルは爆発的に拡大するわけではないと思いますが、コツコツと“こういう趣味って楽しいよね”というメッセージを発信し続けることで、クルマ好き、模型好きが増えてくれれば嬉しいですね。毎月26日の発行ですので、パラパラッとでも見ていただければ幸いです。







長尾 循(ながお・じゅん)
1962年生 東京都出身

クルマ関係の雑誌編集の仕事を目指して、グラフィックデザインを学び、雑誌制作会社に入社。その後、出版会社を希望してネコ・パブリッシングに入社。エディトリアルデザイナーとしてクルマ雑誌を中心にデザイン・レイアウトを手掛ける。'97年、モデル・カーズの隔月刊に伴い、2代目編集長に抜擢され、以来10年を迎える。仕事を楽しみながら「長く楽しむクルマ趣味」を実践している。
http://www.modelcars.jp/
 
  モデル・カーズはクルマ好き・模型好きの編集部6名で毎月発行している。作例の制作には時間がかかるので「常に3ケ月先までネタを仕込んでいます。それでも、予定していたネタが締切りに間に合わなくて、代わりのネタづくりに慌てることもありますよ(笑)」。(長尾氏 後列中央)
 
 
 
 
 
 
  掲載する作例はプロのモデラーによるもの。「作例は雑誌に掲載するのでプロがキッチリ手を入れて仕上げますが、ご自分で作る場合は、肩の力を抜いて好きな様に楽しむのがいいなと思いますね」。
(写真:2007年3月号 掲載作例1/20セリカ)
 
   
 
 
 
 
 
  初めてドイツのトイフェアに取材に行った時、印象に残ったのがジオラマ(情景)の多さだったという。「ヨーロッパでは鉄道模型の人気も高く、その流れかもしれませんが、模型の楽しみ方として個人的にもジオラマは好きなんです」。
(写真:2007ニュールンベルグ・トイフェアでの1/24ジオラマ)
 
 
 
 
 
  「実はミニカーコレクションも、模型制作もそれぞれ一つの世界なんです。だから“ミニカー専門誌にしてくれ”“模型制作の本にして”とか要望もいただくんですよ。でもモデル・カーズ誌は“クルマ好き”から派生して幅広く、バランスよく取り上げるのがコンセプトですから」。深く掘り下げるニーズにはムック形式の別冊で対応。トラック、バス、建設機械などのジャンルにもファンが多い。
 

 

レーシングドライバー砂子智彦氏、というよりは現在のライセンス名「砂子塾長」という方が通りがいいかもしれない。
2005年にレーシングドライバー生活20周年を迎え、07シーズンはスーパー耐久に参戦している。
的確な分析に定評が有り、テストドライバーや開発ドライバーとしても活躍する他、
軽妙なキャラクターや話術から、雑誌記事の執筆やテレビ番組のレポーターなどでも活躍。
今回は砂子塾長にお話しをうかがった。


やりたいなら勝手にやれ。

 考えてみると、僕は乗り物を“操ること”が好きなんですね。それは小学校低学年で自転車を乗りはじめた時からで、急に世界が広がって遠くに行きたい、早く走りたい、上手く乗りたいっていう気持ちだったように思います。それは大人になってクルマを乗りはじめた時も、基本的に同じ(笑)。レーシングドライバーになっても「操る」「コントロールする」ということが純粋に楽しくて、ドライバー歴20年以上になりますが、全然飽きないですね。
 父親がレーシングドライバーだったわけですが、小さい頃にはサーキットに連れていってもらったようですが、もの心が付いてからはサーキットに連れていってもらった記憶もありませんし、家では特にレースの話はしませんでした。モータースポーツ関係の雑誌が良く置いてあって小さな頃から見ていたんで、それが特別な世界とは感じていませんでしたが、身近でもなかったですね。大学生になって“レースをやりたいと”言った時、別に反対もしませんし、かといって勧めもしませんし“やりたいなら勝手にやれ”っていうだけでしたね(笑)。

俺もやりたいっ!。

  大学に入ってからはガソリンスタンドでひたすらバイトして、仲間数人と“FRでマニュアルで3万円以下(笑)”というクルマを買って朝までひたすら峠を走ってました。そんなクルマを8台くらい乗り潰したかなぁ。その合間にサーキットのスポーツ走行にも行くようになりました。
 当時のスポーツ走行はGCマシンもマイナーツーリングも混走で、そこで驚いたのは富士フレッシュマン仕様のサニー。当時は直管マフラーで富士のストレートで10,000回転以上回ってたんじゃないかな。レース仕様のクルマはとんでもなく速いんだなーと驚いた記憶がありますね。自分たちは家のラングレーやカローラのノーマルでしたから(笑)。それで“スゲェー!俺もやりたいっ!!”。でも、学生でお金はないし方法がわからなかったんで、あちこちのチームにラブレターを出したら、その中の1チームが呼んでくれて、一年くらいパシリをしているうちに、“乗ってみるか?”と'85年に富士フレッシュマンでレースデビューさせてもらいました。
 2〜3年走って鳴かず飛ばずで、そこで消えていてもおかしくなかった(笑)。当時、不動産会社の社長の息子さんのカートの面倒を見るバイトもしていて、その社長がJSS仕様のスカイラインを買ってチームを作りレースに参戦することになったんで“乗るか?”ということで、給料を貰って走るようになったんです。シーズン途中にはF3に参戦することになり、日産エンジンのラルト31に乗せてもらえるようになったんですよ。当時も今もF3乗ってお金もらえるなんて、ありえないですよね(笑)。

父に借金をお願い。

 事情があって、そのチームを離れることになり、次にコックスで社員ドライバーとして拾ってもらったんです。この時フォーミュラミラージュに出ようとして、自己資金200万円が必要になり、一度だけ父に借金をお願いしたことがあるんです。そしたら「なんでレースにお前が金を払わなきゃいけないんだ。レースは金を貰ってやるもんだ!」と一喝。それで終わりました。良く覚えてますよ。まさしく的を射た答えだったと思うんです。資金があるなら潤沢に使えばいいでしょうけど、資金は無いんだから、そこをどう切り開いていくかプロのドライバーとして真剣に考えるようになりました。とてもいいアドバイスだったと思いますね。回りの皆も早いうちから僕のそういう事情を知ってくれて、二世としてではなく“砂子智彦”として認めてくれてたような気がします。
 ドライバーとして大切なことの一つは“キャラ”だと思っています。どこの世界でも同じですが、明るいキャラでないと。自分が走るために回りが動いてくれるわけで“あいつを走らせてやろう、勝たせてやろう”と思ってもらえる事が、もしかするとプロドライバーには走りの実力と同じくらい大切かもしれません。(以下次号)

砂子 智彦(すなこ・ともひこ)
1964年生 東京都出身
ライセンス登録名 砂子塾長

85年に富士フレッシュマンでレースデビューし、JSSのDR30、F3にステップアップする。その後、様々なカテゴリーに参戦し、1992年にはN1耐久にスカイラインGT-R で参戦し、1996年に念願のシリーズチャンピオンを獲得する。また、全日本GT選手権にも参戦するが、1998年の富士スピードウェイでの事故により重症を負ってしまい、サーキットから遠ざかってしまう。しかし、毎日のリハビリに励み脅威の回復力により、その年のスーパー耐久の富士戦で復活する。現在も様々なカテゴリーでレースに参戦し続けている。テストドライバーや開発ドライバーを託される事も多く、各種インストラクターも勤める。また、トークや文章の才能にも恵まれ、雑誌の執筆や取材記事、TVのレポーターでも活躍中。
http://www.sunakojyuku.com/

 


父上は'66年の第3回日本グランプリで「プリンス・R380」を駆って優勝を果たした名ドライバー砂子義一氏。だが、塾長がレースの世界に入ることに対してはノータッチだったという。最初のチームに入った時は「バブルで景気のいい時代でしたが、それでも手紙一つで『来ないか』っていうことはありえません。多分『砂子』の名字だったからかなと思いますね。」。イベントでR380の前に立つ塾長と義一氏。
 
 
 
 
 
 
 

砂子氏の趣味はウィンドサーフィン、ウェイクボード、スカイダイビングと幅広い。「やはり、自分の外の力をコントロールして移動することが楽しいんで、クルマや乗り物だけでなく操る楽しさがあるモノはみんな好きですね」。
 
 
 
 
 
 

 
  最初のチームに入ってパシリでがんばっていた頃。この翌年富士フレッシュマンでデビューする。「初めて富士に来た時には、特に違和感や憧れの場所という感じはしなくて、すぐにとけ込めました。記憶にはほとんどないんですけど、小さい頃に連れてきてもらった体験をどこかで覚えてたんでしょうか」。
 
 
 
 
 
 
  '96年にスーパー耐久クラス1で福山 英朗選手と共にシリーズチャンピオンに輝く。#23プリンス東京FUJITSUBO・GT-R。

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