スーパーGT、フォーミュラニッポンという国内トップカテゴリーを走る片岡龍也選手。
“国内チャンピオン”という自らの目標はまだ実現していないが、
来シーズンに向かってさらにパワーアップしての活躍が期待される。
「モータースポーツをやっていて凄く楽しい」という
片岡選手に今回はトップカテゴリーを
走るようになるまでの努力などをうかがった。

チャンスは平等に来る。

 僕なんかは恵まれていて、レースの世界に入るのにプライベートで大変な思いをしたとかはないんです。ただ、レースにデビューした時からメーカーの支援で走りましたから、求められる基準が優勝だったりと、目標設定が高いところにあって本当に厳しかったですね。“ルーキーの割りにはいい”なんていう見方はしてもらえませんから、もう怒られっぱなしでした。最初からそういう厳しい状況の中でしたけれど、上のクラスを走るための大きなチャンスもあったので、チャンスがいつ来てもいいように準備をしておく努力は常にしていました。
 例えば、フォーミュラニッポンやGT500に上がりたいという大きな目標があるわけですよ。それに向かって、今走っているカテゴリーのレース毎に“このレースで勝つ”とか“せめて表彰台に乗る”とか、小さな目標をはっきりさせて自分にいま何が必要か、何をすべきかを意識して取り組んできました。
 チャンスを与えられた時に、パフォーマンスを見せてそれをモノにする。チャンスって結構みんな平等にきてるんですけど、そこでモノにできるかどうかで差が出てしまう。モノにできなかった時に“力がない、運がない”って諦めてしまうと、次のチャンスはもう来ない。諦めなければ次のチャンスが必ず来て、それをモノにすれば一歩遅れるだけで、その一歩は取り返せる、そう思っています。

諦めない。

 レースを走る中でのポリシーは「絶対に手を抜かない」ことですね。その瞬間、瞬間を諦めずに、精一杯走るというのが絶対に大事だと思っています。あたりまえのようですけど、レースをやっていると、どうにもならない日もあるんですよ。セットアップが決まらないとか、なんだか調子悪いとか、トラブルで既に周回遅れだとか。正直、ふてくされたくなるような時もあるんです(笑)。でも、やっぱり諦めない。諦めてる姿っていうのは、人には分かってしまいますからね。「オレはまだ死んでない!」っていうところを見せるような意識を常に持っています。
 それから、自分のその時その時の結果を客観的に観る力も必要だと思っています。“自分は頑張ってるのに”とか“努力してるのに”とか、そういったことは自分では決めないこと。頑張ってるとか努力してるっていうのは、人が判断することですから。変に自分で限界を作らずに努力して、そして客観的に自分を見つめた結果、今、何が足りないか。現実的に直せるところを直していくというふうに、細かく自分のレベルを上げて行くことも大切にしてきました。特に、これからモータースポーツに入るという人には、自分を客観的に分析し、何を直していけばいいかを考え、キチっとしたステップを踏んで上がってくることをアドバイスしたいですね。


レースの魅力を。

 僕らの頃はカートから4輪のレースに上がるステップが分からなかったんですが、今は4輪までのプランがしっかりできています。ところがジュニアのカートやってる子どもなんかは、メーカーのスカラシップを受けて4輪に上がるというプランをキッチリ組み立てすぎて、逆にそれが崩れた時に、諦めてしまう。そうじゃなきゃダメだって思ってしまうんですよね。カートで特に小さい子なら数年かかってもいいですよ。準備する時間は沢山ありますから、焦らずに諦めずに上を目指して欲しいですね。レーサーになったらカッコイイとかそういう単純なところ、たとえば松坂投手が60億でトレードされた時、それだけでも憧れるじゃないですか。そう言った意味でも夢を与えて、全体的なボトムアップとファンづくりをしなければいけないですよね。100人の中からでてくる天才よりも、一万人の中からでてくる天才の方が絶対凄いですから。
 僕自身、モータースポーツをやっていて凄く楽しいんですよ、面白いし魅力も有る。ただそれが世の中に伝わっていないことが悔しいですよね。外から見たらクルマが走ってるだけですから、大変に見えないですけど、人間がクルマと格闘している、死にそうな思いで走ってるという姿をもっと知ってもらいたいですね。コースや気象条件によっては本当に吐きそうになりながら走ってますから。そういう中でクルマと格闘しながら、さらに人間同志、車同志のバトルがあるんですけど、なかなかそれが伝わらない。テレビや様々なメディアでもっと取り上げてもらって、モータースポーツの魅力をもっと伝えて行ければと思っています。







片岡 龍也(かたおか・たつや)
1979年生 愛知県出身

'92年カートレースデビュー。'93年SLカートシリーズ中部地方選手権スポット参戦。'94年中部地方選手権シリーズ参戦シリーズ6位。'95年全日本カートFA選手権参戦。'96年全日本カートFA選手権参戦シリーズ9位。'97年全日本カートFA選手権参戦シリーズ2位。'98年全日本カートFSA選手権参戦シリーズ6位。ヤマハカート(エンジン・シャシー)開発担当。'99年全日本カートFSA選手権参戦シリーズチャンピオン。'00年全日本カートFSA選手権参戦 シリーズチャンピオン。ヤマハカート・アドバイザー担当。フォーミュラトヨタ・レーシングスクール受講。'01年フォーミュラトヨタシリーズ参戦シリーズ2位。'02年全日本F3選手権TOM'Sより参戦シリーズ6位(優勝1回)。'03年全日本F3選手権TOM'Sより参戦 シリーズ3位(優勝1回)。'04年フォーミュラ・ニッポン参戦シリーズ7位/全日本GT選手権GT500シリーズ6位。'05年Team Lemansよりフォーミュラ・ニッポン参戦Forum Engineering LeMans7号車/TOM'SよりスーパーGTインターチャレンジ参戦。'06年Team Lemansよりフォーミュラ・ニッポン参戦/Team LemansよりスーパーGT選手権参戦/全日本スポーツカー耐久選手権参戦。'07年Team Lemansよりフォーミュラ・ニッポン参戦7号車/スーパーGT参戦/ Forum Eng.TOYOTA Team LeMans 6号車。
公式ホームページ http://tatsuya-k.com/
 
  '07シーズンのスーパーGT500クラスをビヨン・ビルドハイム選手とのドライブで闘った#6 Forum Eng SC430。シリーズランキングは9位。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

'07シーズン、5/4に富士スピードウェイで開催されたスーパーGT第3戦では500クラスで3位を獲得した。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
  フォーミュラニッポンはTeam Lemansからは#7のマシンでエントリー。
'07シーズンのシリーズランキングは14位。
 
 
  
 
 
 
 
 
 

  '07年の十勝24時間耐久レースには話題となったハイブリッドマシン、デンソー・トヨタ・スープラHV-Rのドライバーとして飯田章、平中克幸、A・クートの各選手とともに参戦。2位に19周の大差をつけて総合優勝を獲得、記録にも記憶にも残るハイブリッドカーによる十勝24時間耐久レース初優勝をもたらした。
 
 
 

 

高価になってしまった6〜70年代のいわゆる日本のヒストリックカー。
それに比較して入手しやすい8〜90年代の日本車を等身大で楽しむ雑誌として1992年に創刊したジェイズ・ティーポ。
その二代目編集長として2006年からバトンを受けたのが現編集長、鵜飼 誠氏だ。
前編集長のコンセプトを引き継ぎながら、
「面白いと思えることなら垣根をつくらずに広く紹介していきたいと思っています」と
さらにクルマの楽しみを広げていく方向で編集に取り組む。
今回はイベント取材中の鵜飼氏を訪ね、お話を伺った。


クルマ好きは母親の影響。

 普通、クルマが好きになるのは父親の影響を受けて、というケースが多いんですが、僕の場合は母親からでしたね(笑)。母がクルマに興味がある方で、僕に与えるおもちゃも、ミニカーやクルマのプラモデルだし、カー・マガジンとかクルマの雑誌も買ってましたね。子供の頃からウチにあったのはスカイラインやグロリアのワゴンで、物心ついたときから筋金いりのワゴン派でした。
 そんな環境の中で、小学生の頃にはスカイライン54Bとか知っていて、ハコスカのエンジンなんかも“S20のほうがL20よりも偉いんだぞ”なんて言ってましたね、機械的な意味合いは分かってなかったんですが(笑)。だから親戚のおばさんからは“カーキチ”って言われてました。もう死語ですけど(笑)。
 でもウチはセダンは買ったことがなくて、ずっと大きめのワゴンばっかりだったので、気が付くと僕もそうしたクルマが好きになっていて、大きめのワゴンのルーツはアメ車だよな、とそれからアメ車が好きになっていったんですね。

取材は知識の確認?。

 そんなクルマ好きだったことと、大学は文系だったのでクルマ関係の仕事をしたいと思った時にクルマ雑誌の編集というのは、自分にとって自然な流れでした。その当時は会社の歯車にはなりたくないなんていう思いもあって、原稿を書いて出来たものがコンビニなんかで売られるのを見届けるまで、モノが出来ていくプロセスに全て関れる、というのもこの仕事を選んだ理由でした。
 入社して最初に配属されたのが、アメ車メインの雑誌「デイトナ」の編集部でした。当時は僕もアメ車オタクだったし、周りもそう思っていたようです(笑)。自分にとっても自信のある分野なんで、それは良かったんですが、取材に行って記事を書くとクルマのことしか書いてない。最初の頃は気にとめてなかったんですが、オーナーにインタビューして、その人柄や思い入れを感じさせるような記事が書けなかったんです。
 それにはっきり気付いたのはカー・マガジン編集部に移ってからでした。アメ車オタクだと思われていたので、ヨーロッパ車の記事が書けるのか、なんて思われてたみたいですが、例えば旧いBMWについても知識はあったので、自分としては問題なかったんです。ただ、取材の中で人の言葉をしっかり拾ってきていなくて、クルマについての自分の知識を確認するような取材の仕方しかしてなかったんです。それなら、取材しなくても書けるような記事なんですね。
 ところが、自分の企画で「シングルナンバー」の取材ページを作るようになって、旧くからクルマを愛好している方のところに取材にうかがうようになったんです。普段あまり話すことの無いような年輩の方もいらっしゃって、そういう方のお話しを聞いていると、クルマの話題だけでなく様々な分野の本当に豊かな話をされるんですよ。それがそのまま全て記事になるわけではありませんが、そういった取材を通じてクルマというハードにしか目が行っていなかった自分に気付き、取材記事の書き方も変わりました。“取材”ということで色んな方からお話しを聞くことができる、この仕事の良さをあらためて感じましたね。

「楽しい」「面白い」を。

 ジェイズ・ティーポの編集長を引き継いだのは、2006年の5月、157号からです。これまでの編集者としての経験を通じて思ってきたことは「クルマが好き」ということや「クルマで楽しむ」ことにいろいろなスタイルはありますが、全てを肯定するところから始まるということです。例えば最近は若者のクルマ離れということがいわれますが、スポーツカーで走ることを楽しむ、という価値観で規定すると確かにそうかもしれませんが、クルマの室内をLEDで飾るとか、スピーカーをつけるといったことでも、それはクルマが好きということなんだと思います。だから、その方向性が違うだけで、必ずしも“クルマ離れ”といえるのかどうか。
 雑誌としてジェイズ・ティーポは8〜90年代の日本車を中心に扱っていきますが、僕の編集者としてのスタンスにはそういった「全てのクルマの楽しみ方を肯定する」という気持ちがあります。だからネタに困るようなことはないですし、ジェイズ・ティーポらしさの中で「楽しい。面白い」をたくさん取り上げていきたいと思っています。(以下次号)

鵜飼 誠(うかい・まこと)
1973年 愛知県生まれ

子供の頃に家族が転居し神奈川に育つ。大学卒業後、株式会社ネコ・パブリッシングに入社、デイトナ編集部に配属され編集者としての仕事をスタート。その後、カー・マガジン編集部を経て、2005年からジェイズ・ティーポ編集長、2007年からホンダ・スタイル編集長を兼任。誌面ではキャル吉の名前でも登場。
http://www.j-tipo.com/

 


編集部の取材車はコルト・ラリアート。ジェイズ・ティーポ1月号でも特集しているボーイズレーサーサイズ。ターボチャージド1.5リッター147馬力にCVTの組み合わせに「エンジンとCVTのマッチングが絶妙で、気持ちいいんです。ボーイズレーサーとしてはM/Tが本来ですが、このクルマに限っては楽しいのでCVTでもOKですね(笑)」とここでも楽しいものは積極的に肯定。
 
 
 

'92年の創刊号(右上)と鵜飼氏が編集長担当を受け継いだ157号(左上)。奇数月16日発行のジェイズ・ティーポ最新号(右下)はボーイズレーサーを特集。8〜90年代のクルマから最新モデルまで手頃な大きさのクルマで走る面白さを再発見。
 
 
 

 
 

編集長自らイベントなどの取材に出ることも多い。「やっぱり現場で人に会う事や話しを聞くことは大切だし、オーナーさんの連絡先を教えていただければ、特集記事の時なんかにはお願いできますしね」。
 
  
  

 
  編集部スタッフは4名。奇数月のジェイズ・ティーポとともに、偶数月発行のホンダ・スタイルの編集も手掛ける。結果、2誌交互に毎月の発行となり、忙しさは月刊誌の編集部以上。右端が鵜飼氏。
 
 
 
 
  クルマ好になった原点はアメ車に加えて「プラモデルで沢山クルマをつくりました。それもクルマ好きに大きな影響があったと思います」。アメ車のプラモを扱ったブログをネコ・パブリッシングのサイト内に掲載中。『デスクトップガレージ』で検索すればOK。写真は最新作のGTO。

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