スーパーカーをメインコンテンツとする雑誌「ROSSO」。
そこにはフェラーリ、ランボルギーニなど、
第一次スーパーカーブームを体験した
年代層の心に独特の響きを与える名前が登場する。
アンケートハガキから読者層のメインは30代後半から40代。
その中に小・中学生からのハガキも多く混じる。
スーパーカー世代の二世が親子でスーパーカーを楽しんでいるのかもしれない。
滅多に触れることのできない憧れのクルマに接し「読者に代わって体感し、
その世界観を伝えるのが僕らの役目です」という
ROSSO三代目編集長・平井大介氏にお話をうかがった。

自分でいいのか?

 この仕事をしていると、常に海外に行ってスーパーカーに乗っているみたいに思われるかもしれませんが(笑)滅多にそんなことはないんですよ。ところが昨年は2月にフランス本社でブガッティ・ヴェイロン、10月にはフェラーリ本社で430スクーデリア、続く11月にはランボルギーニ本社でレヴェントンに乗るというチャンスに恵まれ、これは本当に幸運な『特別な年』でした。特にレヴェントンの試乗は日本の雑誌として唯一ROSSOだけにいただいたものでしたから、この仕事に関わっていて本当に良かった(笑)。こうした試乗のチャンスを与えられたことに幸運を感じると同時に、それ以上に「伝える責任」のプレッシャーを感じ「自分でいいのか?」と思うんですよ。でも滅多にないチャンスですし、これを逃せば一生悔やみますしね。
 試乗というのは限られた人間だけのチャンスです。それを活かすために、できることは全部やって『乗った人間が何を感じたか』を伝えなければなりません。人によっては、先入観を持たないために敢えて資料は見ずに試乗するという方もいますが、僕の場合は事前に入手できる資料は徹底的に目を通し、頭に入れ『自分が読者だったら何を知りたいのか』というテーマを作った上で試乗に臨みます。たとえば“世界20台の限定生産の世界とは?”とか“その価格の価値はどこにあるのか?”とか。そういう世界観が伝わればと思って、真剣勝負で記事を書かせてもらっています。

世界観を伝えたい。

 それでも我々の試乗だけでは伝えきれない部分があります。それはオーナーとして常に乗っていなければ体験できない世界観です。経済的なこともあり、現実にスーパーカーのオーナーとなれる人は限られてしまいますが、もしオーナーになったのなら飾るだけでなく、是非乗って走っていただきたいと思いますね。飾っておくだけならば、ディーラーで見るのと変わらないし、モーターショーなどでカタログを手に入れることと同じだと思うんですよ。
 せっかくそのクルマを所有し、自分のモノとして自由に乗り回すことができるのですから、その車に込められた世界観を感じていただきたいし、オーナーだからこそ分かる“このクルマはこんな世界観で造られているんだ”ということを“乗る事”を通じて語っていただき、我々と一緒に伝えていって欲しいと思いますね。
 自動車雑誌ではライバル対決のような企画が時々ありますが、例えばフェラーリとランボルギーニを比べても、片やサーキットの技術で究極の市販車を目指し、片や公道から究極を目指すという、それぞれアプローチも考え方も目指す方向も違うクルマを比較することはあまり意味がないと思っています。僕らとしては、そういう比較からでなく、そのクルマだけが持つ独自の世界観や魅力を様々な角度で伝えて行きたいと思っています。


100通りのスーパーカー。

 よく“スーパーカーの定義って何ですか?”と質問されます(笑)。多くの人が持っているスーパーカーの共通イメージは“速い”“高い”“カッコいい”“希少”の要素が一般的で、本誌で特集するときもそういったラインで取り上げますが、はっきりした定義はありません。あくまでも僕個人の意見として言えば“100人いれば100通りのスーパーカーがある”と思っています。その人が“夢を見ることができるクルマ”がその人にとってのスーパーカーじゃないでしょうか。たとえ軽自動車であっても「これが僕のスーパーカー」だと思えば、それはその人のスーパーカーなんです。 昨年、トミカから発売された「ミツオカオロチ」のミニカーが16万台売れたと聞きました。クルマ離れといわれる今の子供たちにもオロチのデザインが認められているということは、いつの時代でも不変のカッコよさというのがあって、そういったクルマのミニカーが人気なのは僕らの頃と同じなんですね。編集部へも「フェラーリが好きです」なんていう小・中学生からのハガキが意外と多く、これは他のクルマ雑誌にはあまりない読者層なんです。子供たちのクルマに対する“夢”や“憧れ”は無くなっているわけではありません。今のスーパーカーブームを見て育った子供たちが大人になる頃、電気自動車になっているかもしれませんが、その時代に合った第4次スーパーカーブームが興るのではないでしょうか。そんな期待をしています。


 
平井 大介(ひらい・だいすけ)
1975年 千葉県生まれ

千葉県松戸市出身。大学卒業後、株式会社ネコ・パブリッシング広告部に入社、カーマガジン編集部に異動し編集者としての仕事をスタート。'97年発刊のROSSOに'99年より異動、副編集長を務め、昨年12月に編集長に就任。
http://www.rosso-mag.com/
 
 



 
 
 
 
 
 
 

フォルクスワーゲングループ傘下となったフランスの名門ブガッティが送りだしたヴェイロン。フランスでの試乗の日はあいにくの雨。「最高出力1001馬力、400キロ出るという車に乗れる機会は滅多にあるものではありません。2億円という価格が頭をよぎる中、ここでアクセルを踏まなければ男じゃない!と雨の中、寿命が縮まるような緊張の中でハイスピードを体験しました」
http://www.hobidas.com/auto/impression/article/68943.html
 
 
 
 

 
  昨年11月、世界限定20台のみ製造のランボルギーニ・レヴェントンにイタリアで試乗。「価格は100万ユーロ(約1億5800万円)。現在市販しているランボルギーニ・ムルシエラゴの約4000万円弱に対して4倍のプライスです。これはランボルギーニのブランド価値を高めるための勝負でもあるんです」。
http://www.hobidas.com/auto/newcar/article/68415.html
 
 
 
  フェラーリ430スクーデリアには昨年10月イタリアでの試乗。開発にはあのM・シューマッハが携わっている。「第2世代に進化したF1スーパーファストの変速はわずか100分の6秒で、パドルを引いた瞬間にギヤが繋がり後ろから押し出される感覚。ちなみにこれは数年前のF1マシンのレベルというから驚き。スポーツカーとF1の究極的な融合を得たスーパーカーですね」
http://www.hobidas.com/auto/impression/article/74676.html
 

 

'02年、全日本GT選手権GT300のエントリーリストにかつての人気アニメ“マッハGoGoGo!!”の「マッハ号」
そして主人公「三船 剛」のドライバー名を見つけてニッコリした人も多いのではないだろうか。
エントリー名「三船 剛」で'05年までマッハ号をドライブしたのが桧井保孝選手だ。
桧井選手は'88年にフォーミュラの登竜門FJ1600でデビュー以来、
'91年には単身渡英しフォーミュラヴォグソールクラスにフル参戦、
帰国後もF3、F3000、GT、スーパー耐久、そしてルマン24時間にも参戦するベテランドライバーだ。
一方、フェラーリ国内代理店のオフィシャルドライバーとしても活躍し、
今や「日本一のフェラーリ使い」とも言われる桧井氏にお話を伺った。


アニメのヒーローに!

 “マッハ号”でGTに参戦するプロジェクトは、アニメ“マッハGoGoGo!!”の制作プロダクション“タツノコ・プロ”が創立40周年を記念して立ち上げた企画で、そのドライバーとして僕に声がかかったんです。夢のある企画なので喜んで乗せてもらいました。最初は本名でエントリーしてたんですが、タツノコ・プロのスタッフに「主人公の三船剛に似てる」と薦められ、第3戦から「三船剛」で走るようになったんです。本来、エントリー名には本名の一部が入らないとダメなんですが、JAFのイキな計らいで特別に許可をいただけたんです。ですから、当時のリザルトも「三船剛」で載っていますよ。
 マッハ号の応援にはアニメを見た世代のお父さんが家族連れで沢山サーキットに来て下さいましてね、ファミリーでレースに来てくれるきっかけになったのは本当にうれしかったですね。やっぱり子どもたちにレースやクルマを好きになって貰いたいですから。当時のサインはもちろん「三船剛」(笑)。走っている僕自身も一緒に楽しんでました。

きっかけは拾った10万円。

 もともと僕は機械や乗り物好きで、中学の物理クラブに入ってみんなでエアガンの改造や解体屋で買ったバイクを直したりしてたんです。中3の時「今度はクルマだ」っていう話しになり、一人が「通学路にレーシングカートのお店がある」っていうんで、みんなで押し掛けてボロのカートを手に入れたんです。それをなんとか直して校庭を走り廻ってたら先生に叱られて。でも面白いから何度も走るんですよ、「これも実験だ」とかいって(笑)。
 実はそのショップ、当時全日本カート選手権でトップを争う野田優さんのお店だったんです。「そんなに走りたいなら」と野田さんがみんなをカート場に連れて行ってくれて、時々コースを走るようになりました。
 そんな頃、偶然拾ったのが10万円。警察に届けましたが落とし主不明で戻ってきた。それを軍資金に中古のカートを買ってレースを始めちゃったんですね。走ったらそこそこ速かったんで、丁度上のクラスに参戦することになった野田さんが「もったいないから、一緒にやろう」とそれまで使っていたカートを譲ってくれた上にカンパまでしてくれて、本格的に始めたんです。それが高校に入った頃。だから、ドライバーになろうとは思ってもいなかった僕がドライバーになった一番の原因がこの10万円かなぁ(笑)。
 カートの次はFJ1600で走りたかったので高校を卒業すると鈴鹿に近い名古屋のガレージに就職して、メカニックをやりながら自分も参戦するようになりました。忙しくて自分の車をメンテする時間がない。でも、メカニックの経験は後々ドライバーとして走る時にも、インプレッションを担当するときも大いに役立ってます。

自分の走りを完璧に。

プロとして走れるようになったのは'90年のF3からで、丁度その頃「本場を体験したほうがいい」という話があって、イギリスに渡るチャンスをいただいたんです。それで'91年に、フォーミュラヴォクソールに一年間参戦しました。ここには世界中からF1を目指す若いドライバーが集まってくるんですよ。この体験は大きかったですね。特にカルチャーショックを受けたのがドライバーたちのストイックな生活態度。朝は規則正しく起きるし、フィジカルトレーニングもキッチリ行う。他のものには目もくれず生活の全てがレース一筋。プロフェッショナル意識が強く、正にアスリートと同じですよ。F1を走るようなトップドライバーならなおさらで、レースを極めて行く姿勢とその生活態度は社会的にも尊敬され、地位も高いんです。“プロのドライバー”とはこうあるべきというのを強く感じましたね。それは今にいたっても僕の中に大きな影響を残しています。
 僕は競うより運転が好きでドライバーになったタイプなので、レースでもクルマとの一体感を味わうことが楽しいし、理想とするラインをキレイに走ることに満足を感じるんです。ドライバーの中には人と競うことが好きな負けず嫌いの人が多いんですが、僕は“あいつに勝つ”とか“抜かせない”とか相対的に競うのではなくて、レースの中で“性能を引き出して自分のベストの走りをする”ことに100%努力するんです。それがタイムに出るし、結果として勝てるんですね。ただ、思い返すとカート時代、親の支援で走るドライバーに“負けたくない”というのでレースに熱くなり渡英までして今があるわけだから、根本は僕も負けず嫌いなんですね(笑)。
(以下次号)

 
桧井 保孝(ひのい・やすたか)
1969年生 広島県出身

中学時代にはじめたカートレースからFJ優勝を経てF3でレーシングドライバーへ、マッハ号では三船剛の名で登録して活躍、スーパーGTのレギュラーほか2006年にチームJLOCでルマン24時間レースに参戦、取材ドライバー、レースオフィシャルに活躍の場を広げている。(株)ファースト レスポンダー代表取締役。
http://www.hobidas.com/blog/car-mag/lemans/

 


'02年、GT300に登場した白いボンネットに赤い“M”マークのマッハ号。車番はもちろんアニメと同じ#5。(BANPREST CAR倶楽部マッハ号MTと三船剛のサイン)
 
 
 
 

『フェラーリ使い』としてデモ走行やインストラクターなどフェラーリ関係のイベントでも活躍。5/10,11に富士で開催の“フェラーリフェスティバルジャパン2008”ではF1デモ走行を担当。「会場でお会いできるといいですね」
 
 
 

 
 

'06年GT300開幕戦をM.アピチェラ選手とJLOCムルシエラゴRG-1をドライブし優勝。これはランボルギーニ車として国内公式戦初優勝でもあった。
  
  

 
  '91年、渡英した頃。メンテのスタッフは全て外人。「細かなニュアンスが伝わらなくて言葉には苦労しました」。
 
 
 
 
  '88年にFJ1600でレースデビュー。当時は半分以上予選落するほどエントリー台数も多かった。「上位入賞者に賞金がでるエンケイさんのスカラシップがあって、随分助かりました(笑)」。
 
 
 
  '06年にはル・マン24時間に参戦。「プレステのグランツーリスモで練習しましたが、数面クリアしないと本コースに辿り着けないので、そこに2週間くらいかかりました(笑)」。
(#53JLOCランボルギーニ・ムルシエラゴ:
M. アピチェラ/山西康司/桧井保孝組 
GT1クラス)

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