カーマガジン誌の読者層は30〜50歳をメインと想定しているが、
編集部に寄せられる読者アンケートを見ると下は10代から上は70代まで
幅広い年齢の読者から様々なご意見が寄せられている。
クルマや免許がなくても「興味深くクルマの話を楽しむ」というカーマガジンのスタンスが、
年齢に関係ない支持を受けていることが伺われる。
2回目の今回は、雑誌編集の仕事について、そしてクルマに対する想いについて、語っていただく。

実車がなくても特集は組める。

 ときどき「毎月発行でネタに困ることはないんですか?」と聞かれることがあります。確かに今回ポルシェの特集をやったら当分ポルシェの特集は組めないとか、思いがちなんですけど、実はそうじゃないんです。例えば、ポルシェを好きな人は、365日ポルシェが好きで365日楽しめる何かがあるはず。だから極端なことを言えば毎号ポルシェを特集してもいいわけなんです。そう考えるとネタなんて尽きないな、と気づきましたね。
 確かに苦労の耐えない仕事ですが(笑)、この世界に居ると、自然に興味が湧いてくることがあって、何気ない雑談やちょっとした思いつきから特集ができるということがよくあります。
 たとえば、361号の生沢さんの特集は、“生沢さんがポルシェを買った”というだけのことで始まって(笑)、巻頭から40ページぐらいまで、インプレッションはおろか、生沢さんのポルシェが走っている写真すらないんです。走っている写真が無くても特集になってしまうんですよ、クルマ雑誌なのに(笑)。
 さらに実車がないのに記事になったのが310号の『ミステリアス・イオタ』という特集。一台だけ作られたランボルギーニ・イオタには『さる富豪が愛人を乗せて運転中、事故に遭って全損してしまった』という都市伝説みたいな話がまことしやかに伝わっていたんです。でも、「これ、誰か調べたのかな」と思ったんですね。そこで早速イタリアのジャーナリストに「イオタは最後どうなったか知っていますか」とメールしたら「イタリアではそんな話、誰も興味ないし知らない」という返事。だったら調べてみよう、ということでイタリア在住のコーディネイターと2人で調べてもらったところ、世界中で広まっていたイオタの都市伝説めいた話は全部ウソだということが判明したんです。驚いたことに、イオタの噂話は30年間、誰も検証してこなかったということが分かりました。それで、昔の写真ばかりを載せた特集を組み、これが、世界的なスクープになったということがあります。

すべてクルマの話。

 クルマは乗る物ですが、カーマガジンの根本には「乗らなくても楽しめるもの」という考えがありますから、クルマを作った人の話も、クルマのプラモデルも、クルマを描いた絵も全てクルマの話なんです。そうするとクルマを持っていなくても、免許を持っていなくても、楽しめる世界があるんです。クルマがあってはじめて成立するクルマ雑誌ですが「クルマがなくても特集が組める」というのがカーマガジンらしさかもしれませんし、そんなクルマに関する様々な欲求を満たす答が散りばめられている本、それがカーマガジンだと思います。
 大切にしているのは、興味を持ったら何とか実現できないか考えてみること。イオタ特集のように、自分が外国へ行けない場合は現地に居る人に調べてもらうとか、色々と考えれば何でもできるんです。その興味をいかにして記事として実現するか。それが自分の本づくりでしょうか。


本棚に残せる本に。

 僕の仕事は編集なんですが、ネコ・パブリッシングが主催するクルマのイベントも重要な仕事となっています。毎年秋に行われ今年12回目となった「ヒストリック・オートモービル・フェスティバル・イン・ジャパン」では、日本人唯一のポルシェワークスドライバーだった生沢徹さんを招き、第5回日本グランプリで生沢さんが乗ったポルシェ910でデモ走行していただくイベントを仕込みました。これはロンドンの生沢さんを取材したことから、その延長線上で実現されたもので、その意味でイベントは「動くカーマガジンの世界」だと考えています。
 僕は本を作っている間、その号で担当するクルマが欲しく欲しくてたまらなくなるんですよ。それくらいに気持ちが入ってしまうんですね。でも、そのままだと次の号で担当するクルマも欲しくなってキリがないので(笑)、その号を作っている間だけ本気で“欲しい!”という状態が続いて、次の号に着手したらキレイに忘れるというのが理想なんです。でも忘れられないんですよ(笑)。 
 今後カーマガジンを大きく変える気はありませんし、読者としてカーマガジンを読んできた延長線上で、基本的に僕が読みたいカーマガジンを作り、それが支持されれば幸せですね。そして「あのクルマが欲しいな」と思ったときに「たしか、あれに載ってたな」と過去の掲載号を本棚から出してもらえるような、皆さんの本棚にいつまでも残していただける、そんな本でありたいと思います。


 
藤原 彦雄(ふじわら よしお)
1972年生まれ 静岡県出身

1995年ネコ・パブリッシング入社。総務所属後'98年にカー・マガジン編集部に異動。副編集長を経て現在編集長代理としてカー・マガジンを牽引する。
http://www.car-mag.jp/
 
  10月25・26にツインリンクもてぎで開催されたHAFJ(ヒストリック・オートモービル・フェスティバル・イン・ジャパン)のトークショーで生沢徹氏(左)と対談する藤原氏。「カーマガジンでインタビューをさせていただいたのがご縁となって、今回のイベントで生沢さんと910の共演が実現しました。僕らにとってもお客さんにとっても、雑誌社のネコらしいイベントだと感じてもらえたんじゃないかと思います。」
 
 
  HAFJの告知用チラシ。#28のポルシェ910は1968年の第5回日本グランプリで生沢氏が総合2位、クラス優勝を果たしたマシーンそのもの。当日イベントの目玉として、レストアされたこの車両を当時のレーシングウェアに身を包んだ生沢氏が50年ぶりに走らせた。
 
 
 
 

 
 

今回のイベントに生沢さんが参加するキッカケとなったカーマガジン361の特集記事
 
 
 
 
 

   
  ネコ・パブリシングが企画・運営するもう一つの大きなイベントが初夏に開催されるジャパンヒストリックカーツアー。2007年は藤原氏も愛車のロータス・エランで参加、3日間で約800キロのコースを無事走破しゴールしたときの写真。
 
 
 
 
  長期テスト車レポートも担当する。クルマにニックネームをつける癖があるようで、現在担当のアルファ・ロメオ159は“セレ子”、前回担当のルノー・メガーヌは“セニオ”、という名が・・・。
写真はセレ子内装掃除の図(カーマガジン361)
 

 

1999年、26歳でレースにデビューし、その後、モータースポーツの本場ヨーロッパへ渡り、
2005年からはイギリスF3にフル参戦を果たすなど、
女性レーシングドライバーの第一人者として活躍してきた井原慶子さん。
モデルからレースクィーン、そしてレーシングドライバーへ。
華々しい経歴に飾られた足跡と今後の活動についてお話を伺った 。


きっかけはレースクィーン。

 私がレーシングドライバーになったのは、大学時代にはじめたモデルのアルバイトがきっかけです。その頃スキーのモーグル競技をやっていて、合宿や遠征の費用を捻出することが目的でした。普通のバイトだと、どうしても時間が拘束されてしまうんですが、モデルなら時間の都合がつけやすいし、お金の面もいいし、効率的に稼げるというのが一番の理由でしたね(笑)。そうしてはじめたモデルの仕事の1つがレースクィーンでした。それまでモータースポーツにまったく興味はなくて、クルマの運転免許すら持っていなかったんです(笑)。
 レースクィーンの仕事で初めてサーキットに行ったのは、富士スピードウェイのフォーミュラ・ニッポンだったと思います。その時、非日常的な音とスピード、そしてサーキット場全体を覆い尽くすような緊迫感に触れ、一気に虜になりました。というのもそれまでスキーという道具を操るスポーツに打ち込んできたため、「あのクルマを自由自在に動かしてみたい」と直感したんです。
 それから、自動車の免許を取得し、仕事で知り合ったレース関係者に「レーシングドライバーになるにはどうしたらいいですか?」と訊いて回りました。その頃、あるメーカーのインストラクターに合格し、養成していただく中でドライビングテクニックの基礎を学びました。この経験が大きかったと思います。インストラクターの合格理由は「免許取り立てで変な癖がついていなかったから」と後から聞きました。

念願のレーシングドライバーに。

 レースにデビューしたのは1999年、26歳のときでした。よく「レースクィーンからレーシングドライバーに華麗に転身」といった紹介がされていますが、決意してからレースデビューまで4〜5年かかっていて、その間、ドライビングテクニックを学んだり、身体づくりと体力アップのトレーニングを積んだりしていました。
 デビューレースは、国内のフェラーリチャレンジというGTカーレース。このレースを選んだのは、以前フェラーリチームのレースクィーンを務めていたこともありますが、デビューが遅かっただけにできるだけ難しいクルマに乗って、ドライバーとしてやって行けるかどうか早く見極めたいと思ったからでした。もし駄目だったら諦めようと。フェラーリはミッドシップエンジンでバランスはいいけれどハイパワーで難しいと聞いていたんで、乗りこなしてみたいと思いました。
そうして臨んだデビュー戦で3位に入賞し、その後2戦連続で優勝するなど、結果が出たことで「やって行けそう」と自信を深めました。
 レースの現場で女性というハンディは感じませんでした。でも、レースクィーン出身のドライバーということで「本当に運転しているのか」とか「エンジンは同じなのか」とか言われたり、好奇の目で見られたりもしましたね。

夢を求め、単身ヨーロッパへ。

 その年、イタリアで開催されたフェラーリチャレンジの世界戦に出場し、そこで本場のレベルの高さを痛感しました。激しいレースに魅了されてヨーロッパへ渡ることを決断し、フォーミュラレース出場を目標にメンタルの強化や身体づくりに取り組みました。
 ドライバーはシートに座っているんで体力をあまり使わないように思われるかもしれませんが、例えばマラソンレースの心拍数はだいたい160以上です。レース中、ドライバーの心拍数も160以下になることはありません。それほどの体力と身体能力、そして自分の体重の3倍とか4倍のGに耐えうる筋力を要します。フォーミュラカーになるとタイヤのグリップ力が大きい分、ハンドルは重くクラッチも市販車ベースのGTとは比べられないほど重くなります。そのためシーズン中は、サイクリングやジョギング、筋力トレーニングを続けて腹筋は6つに割れてました。オフには食べたいものを食べて何もしないので、1つになってしまうのですが(笑)。それからあまり知られていないことなのですが、限界までトレーニングしていると免疫力が下がってしまい、風邪などひきやすくなるので、細心の注意を払っていました。
 そうして2000年、周りの人に訊いたり、スポンサーを探したりしてヨーロッパへ渡り、イギリスのフォーミュラ・ルノーシリーズへの参戦を果たしました。(以下次号)

 
井原 慶子(いはら・けいこ)
1973年生まれ 東京都出身

レースクィーンの時にモータースポーツに魅了され、レーシングドライバーをめざす。'99年レースデビュー。'00年英国フォーミュラ・ルノーチャンピオンシップ。'01年フランスF3参戦。'02年AF2000ゲスト参戦。'03年Formula BMW Asianシリーズ。'04年フォーミュラドリーム全戦参戦。'05/'06年イギリスF3に日本人女性初フル参戦。
http://ameblo.jp/iharakeiko/
http://www.keikoihara.com/
http://www.hobidas.com/blog/auto/ihara/

約4年の準備期間を経て、'99年にフェラーリ・チャレンジデビュー、3位入賞。直後に、英国のジム・ラッセル・レーシングスクールに短期留学。その後フェラーリ・チャレンジ世界大会へ出場。翌'00年には渡英し「フォーミュラ・ルノーシリーズ」に参戦、以降海外のフォーミュラを舞台に女性初の数々の実績を残す。「レースクィーン出身ということで最初は『本人が運転してるの』なんていわれたこともありました」
 
 
 
  '01年にはフランスF3に参戦、'02年には資金的に苦しい時期を迎えたが、'03年にはアジア各地を転戦する「フォーミュラ・BMWアジア」シリーズに参戦、シーズン3位を獲得。この時にできたアジアの繋がりは、これからの夢に大切なものとなる。('03フォーミュラ・BMWアジア)
 
 
 
 
 
 

モデル時代、レースクイーンの仕事がモータースポーツとの最初の接点となった。フェラーリクイーン('97)、NTTイメージガール('98)などを経て、5千人を超える応募者の中からF1ベネトンレースレースクイーン・グランプリでミスベネトン('99)に選ばれた。
  
 
 

 
  フェラーリ・チャレンジ世界大会('99)。スタート直後にコースアウトするも、18位まで追い上げて年度最優秀賞受賞。その喜びよりも、悔しさとモータースポーツの魅力をあらためて感じ、本場ヨーロッパでのレース活動を決断するきっかけとなった。
 
 

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