レースデビューから'05、'06シーズン英国F3フル参戦まで、フォーミュラのカテゴリーを7年で駆け上がり、'07からはヨーロッパでF3000のテストにも参加した井原慶子さん。
昨年、ご結婚をされたという事もあり、今までのレース参戦形態とは少し形を変えていく事となるだろう。
しかし、この間に得たものは大きく、現在、モータースポーツ関係はもちろん、
ドライバー、ジャーナリスト、タレントとしてマスコミを中心にその活躍の場をさらに広げている。
今回は海外の事情やこれからの夢などを伺った。

諦めない。

 渡欧2年目はフランスF3に参戦し、4回入賞することができましたが、翌2002年は多くのスポンサーがモータースポーツから撤退した年で、資金難になってレース活動を続けるのが困難な状況に陥ってしまいました。モータースポーツは男性社会なので、スポンサー探しにしても“女性ではレースに勝てないから、そこに投資はできない”と断られることもあって、男性のほうが有利なんですね。それでも「チャンスはゼロじゃない!」と諦めないのが私で(笑)、体力アップのトレーニングとスポンサーへの営業をねばり強く続けました。ドライバーになりたいとかメカニックになりたいとか、レースの世界を目指したとき、女性に対しての環境が整っていないだけに、女性の方が絶対ハングリーになれると思いますよ(笑)。
 おかげさまで'02年はシーズン途中からアジアン・フォーミュラ2000(AF2000)にスポット参戦できるようになって優勝も経験したし、マカオGPでも大会史上初めて女性として表彰台に上ることが出来て、様々な意味で印象深いシーズンでしたね。翌年もアジア各地を転戦するフォーミュラBMWアジアシリーズに参戦し、シーズンランキング3位を獲得しました。この中でアジアの人たちに触れ、知り合ったことも大きな収穫でしたね。

アグレッシブが当たり前。

 最初に見たモータースポーツがフォーミュラだったので「それをやりたい」「あのクルマを自由自在に操ってみたい」「F3ってどうやって行くのか知らないけど、とにかくあそこに行きたい!」って思って26歳でレーシングドライバーとなって7年、目標としていたイギリスF3へ'05シーズンにフル参戦を果たしました。入賞7回、世界選手権にも出場しました。翌シーズンも入賞4回と、イギリスF3という夢の舞台で入賞することで大きな達成感を得ました。
 アジアやヨーロッパを転戦して一番感じたことは、レースに賭ける想いの違い。民族性の違いもあるかもしれませんが、ハングリー精神が強いんです。レースはマシンのノーズコーンが接触するくらいアグレッシブな走りが当たり前で、ノーズが無傷だと監督から「帰ってくるな!」と叱責されるほど(笑)。日本では縁石の内側を走るドライバーは居ないと思いますが、ヨーロッパでは、レギュレーションを調べて、問題がなければ何でもやってきます。教科書通りのことではなく、タイムを出すためにはどこをどうするか。それはクルマづくりにも言えることです。 
 トレーニングの仕方にしてもマニュアル通りなんてことはなくて“スケボーの上でテニスラケットを振って体幹を鍛える”といったように型にはまらないで創造的に工夫するんです。それぐらい、勝つことにハングリーになって取り組んでいます。日本は安全なレースという点では優れていますが、スポーツとしての戦いという点では、まだ大人しい感じがしますね。


いつかエコカーでル・マンに。

 「F1に乗りたい」という気持ちもあって、2007年には国際F3000のテストに参加しましたが、今はマシンの進化スピードがすごく速くて、スポーツ科学に基づいて鍛えても、体力的に追いつけないという現実があるんです。15年くらい前のマシンならついて行けたかもしれませんけどね(笑)。F1に乗ることはできませんでしたが、イギリスF3入賞という夢を達成できたので、レーシングドライバー人生に区切りをつけることにし、昨年結婚もしました。
 ヨーロッパを中心に一年の四分の三を海外で過ごす生活から、活動基盤を日本に移して日本やアジアのモータースポーツ界を見ると、女性がドライバーとして活動を続けられる環境が整っていないことを改めて思い知らされましたね。欧米に比べて女性の社会進出が遅れているアジア地域では 女性がレーシングドライバーとして活躍するには、まだまだ多くの困難があります。しかし、皆が知恵を出し合い、工夫すれば、アジアにおいてもモータースポーツが発展し、女性のスタッフやドライバーが活躍できる土壌が整えられるはずです。
 今の夢はエコなクルマでアジアのスタッフと一緒にル・マン24時間レースに出場すること。アジアが発展すれば嬉しいし、モータースポーツとエコロジーとの融合ができたらと考えています。
 どんな夢にしても、大切なのは、時間を区切らず、諦めることなく続けること。そうすれば、いつかきっと叶うものです。免許も持っていなかったレースクィーンが数年後にレーシングドライバーとなって世界を転戦したように、です。


 
井原 慶子(いはら・けいこ)
1973年生まれ 東京都出身

レースクィーンの時にモータースポーツに魅了され、レーシングドライバーをめざす。'99年レースデビュー。'00年英国フォーミュラ・ルノーチャンピオンシップ。'01年フランスF3参戦。'02年AF2000ゲスト参戦。'03年Formula BMW Asianシリーズ。'04年フォーミュラドリーム全戦参戦。'05/'06年イギリスF3に日本人女性初フル参戦。
http://ameblo.jp/iharakeiko/
http://www.keikoihara.com/
http://www.hobidas.com/blog/auto/ihara/
http://www.hobidas.com/blog/auto/ihara/m/
 
  2005年、化粧品会社IVYのスポンサードを受け、F1の登竜門と言われる英国F3に
アジア人女性として初のフル参戦を果たす。
「レースクィーンとして車の横に立つんじゃなくて、この車の中に乗り込みたい!」。
その強い思いが、念願の英国F3参戦を実現した。
'05シーズン所属チームはF1ドライバー佐藤琢磨もF3時代に所属していたカーリンモータースポーツ。
入賞7回、シーズン16位。
(#5 Ivy with Carlin Motorsport /ダラーラ・ 無限ホンダ)
 
 
  '02年は資金難になるも、アジアンフォーミュラ2000にスポット参戦。第9戦のビラ・インターナショナルサーキット(タイ)ではポールト・トゥ・フィニッシュ。女性ドライバーとしてFIA公認フォーミュラカーレース史上初の優勝という快挙となった。
('02アジアンフォーミュラ2000 Team Yellow Hat)
 
 
 
 

同じく'02年11月には世界選手権「マカオグランプリ」のサポートレースAF2000でも大会史上初の女性入賞(3位)を獲得。モータースポーツの人気が高いアジア各国では、レーシングドライバーとして有名な存在だ。
 
 

 
  '06年、エスグラント・コーポレーションをスポンサーに得て、再びカーリンモータースポーツから2年目のF3フル参戦を実現。入賞4回、シーズン17位。
(#11 S-GRANTRacing Team/ダラーラ・無限ホンダ)
 
 
 

 

雑誌の企画を切っ掛けにレーシングドライバー・モータージャーナリスとしてのキャリアを積み、現在、雑誌・テレビ・Webなど多方面で活躍する“藤トモ”こと藤島知子さん。
テレビ神奈川制作の自動車情報番組「岡崎五朗のクルマでいこう!」にも
五朗さんのパートナーとしてレギュラー出演。
番組が見られる地域の方にはお馴染みかもしれない。
クルマに目覚めたのは遅かったというが、
そこからチャンスを活かして夢を一つひとつ掴んできた藤島さんにお話しを伺った 。


クルマ好きだったんだ!

 まわりの女友だちが免許を取る頃、私はクルマは眺めるもの、助手席に座るものと思っていて、運転する機会もないし二十歳を過ぎても免許を取らなかったんです。ところが、付き合っていた彼がクルマ好きで、一緒に雑誌を見ていたらクルマの名前がポンポン頭に入ってくるんです。そのとき“アレ、私クルマ好きなのかな”って初めて気付いたんですよ。後で母に聞いたら「小さい頃クルマが好きでスーパーカーのミニカーで良く遊んでたじゃない」っていわれました。全然覚えてなかったんですが、潜在意識に“クルマ好き”があったんですね。
 それでクルマに目覚め、一ヶ月教習所に通いつめて免許を取ったのは24才の時。友だちはオートマ免許が多かったんですけど、私はスポーツカーに憧れたので、迷わずマニュアル免許。最初はひどくて、坂道発進はズリ落ちるし、脱輪はするわで教官に「おまえはダメだ!」なんて言われたくらいだったんですよ(笑)。
 乗りたかったのはRX-7でしたが、免許を取ってすぐ乗れる車じゃないと思い、まずオペルワゴンに半年乗って運転に慣れた後、ディーラーに乗り込んでRX-7の新車を契約したんです。でもオペルはAT。MTには乗ってなくて“坂道発進が心配”といったらディーラーの方が“MT車で駅まで送っていくので練習されては?”。運転したら案の定、坂道発進でズリ下がって、セールスマンはドアにしがみついてました(笑)。

レースに出てみない?

 当時モデルのバイトをやっていて、知り合いの中にレースに関係している方がいたんです。レースチームのマネージャーをやってみたかったので聞いてみたら「いきなりできるものじゃない」って言われて、ただ「キャンギャルが決まってないから、そっちをやってみたら」ということで、スーパー耐久のチームで一年間キャンギャルをやらせてもらったんです。サーキットは初めてだったんですが、レースの緊張感や雰囲気に囲まれるのが凄く楽しくて、もう一年やりたくなりました。でも、次が見つからないんです。
 そこに飛び込んできたのが初心者向けレース参戦の話。「RX-7に乗ってるんだからスポーツカー乗れるんでしょ?」みたいな感じで声をかけられて軽い気持ちで「はい、やります!」。それは雑誌K-CARスペシャルの企画で、前年から始まった“スズキKeiスポーツカップ”というワンメークレースに全くの素人が参戦してレポートを連載する、というものでした。ところがこのレース、A級ライセンスが無いと走れないJAF戦だったんです。サーキットを走ったことは無いし、ヒール・アンド・トゥーもできない私が、RX-7に乗ってるということがキッカケでレースに出ることになってしまったんです。しかも、記事としてレポートを書かなければいけない。これが私のドライバー、ライターの同時デビューになりました。

面白さにハマる。

 デビュー戦は2002年5月12日、菅生で行われた北日本シリーズの第2戦でした。生まれて初めて走るサーキットがデビュー戦で、しかも高低差が60mもある難しいコース。これに備えて箱根で夜な夜な一晩で二回満タンにするくらいヒール・アンド・トゥーの練習をしましたが、いざサーキットを走ると、最初わけのわからないうちにスピンしたり、普段FRのRX-7なのでFFの動きが恐くて恐くて、「なんでこんなに恐いのに走らなくちゃいけないんだろう」って思うくらい恐かったんです。でも結果は、後ろから4番で絶対ビリだと思っていたので少しうれしかったですね。
 クルマはメーカーから雑誌社に貸してくれるんですが、サポート体制は特になくて、ナンバー付のレースなので、タイヤ4本と工具を積んでひとりで自走で菅生(仙台)、オートポリス(大分)、セントラル(兵庫)まで行き、空気圧とかちょっとしたセッティングも自分でしました。
 レースで大事なのは精神的なコントロールだったり、負けん気だったり、そこに体がなんとかついてくるというところだと思うんですよ。そういった面で他のスポーツと違って、クルマという道具を使うことによって、男女関係なく対等に戦えるっていうのもモータースポーツの魅力ですね。
 クラッシュもやったし、横転もしましたが、それでも雑誌の企画なので走らなきゃいけないし、軽いムチウチ状態でもレースをやっていると興奮状態なんで痛みを感じないんですね。この一年でレースの面白さにはまってしまい、もう一年やりたくなりました。

 
藤島 知子(ふじしまともこ)
神奈川県出身

幼い頃からのクルマ好きが高じて、スーパー耐久のレースクイーンを経験。その一年後、サーキット走行はズブの素人だったにもかかわらず、ひょんなことから軽自動車の公認レースに参戦することになる。以来、レースの素晴らしさにどっぷりハマり、現在は自動車雑誌やWeb媒体で執筆活動する傍ら、箱車にフォーミュラカーにと、ジャンルを問わずさまざまなレースに参戦している。
日本自動車ジャーナリスト協会会員、日本カーオブザイヤー選考委員
藤トモweb
http://www.hobidas.com/blog/tipo/fujitomo

軽自動車のワンメイクを経て、2005年にはスズキのワンメイクレースの最高峰「フォーミュラスズキ隼」のカテゴリーまでステップアップ。2006年はシリーズ4位の結果を残す。「子どもの頃から一つの事を余り長くやったことが無かったんですけど、レースに出会って本当に熱中できるものを見つけました」。
(写真は2006年 栄光D&CユニバーサルFS隼のコクピットで)
 
 
  スズキKeiスポーツカップ参戦2年目、車両はSWT静岡@ジアラKスペKei。
 
 
 
 
 

レース&ライターデビューの切っ掛けとなった雑誌K-CARスペシャル。2002年のK-CARスペシャルがお手許にあれば、ご覧いただきたい。
  
 

 
  2001年、スーパー耐久のクラスNプラスにエントリーするJIC with KRAFTチームのキャンギャルを勤める。ドライバーは山路慎一選手と松田晃司選手で車両はJIC クリスタルアルテッツァ。「キャンギャルは一年やると、来年もやりたいってなるくらい楽しいんです」 。
 
 
  スズキKeiスポーツカップ参戦のきっかけを作ったRX-7。その後、ホイール4本を盗まれたうえ、参戦中のフォーミュラスズキ隼のエンジン換装と重なったため、泣く泣くRX-7を手放して隼のエンジン費用を捻出したという。
 

 
 

レース一年目ですっかりレースにハマってしまった藤島知子さん。
そこからわずか4年でフォーミュラ隼のカテゴリーまでステップアップした。
'08年からは出演しているテレビ番組の収録が土曜日となるため
「年間のシリーズ戦は難しいし、ましてやスポンサーを集めてのレースは
毎回走ることが条件になってくるので」と現在はスポットのレースを中心にエントリーしている。
今回はレースの中で培ってきたことやジャーナリストとしての思いなどを伺った 。


本気でレースに取り組む。

 レース二年目にはフォーミュラスズキKeiスポーツにも参戦しました。ただ、メーカーさんが雑誌の企画に車輌を貸してくれるのは最初の一年だけなので、翌年も走りたくて「雑誌でレポートします」とディーラーさんに企画書を持ってお願いに行きました。 
 スズキのワンメイクレースはさらに「フォーミュラ隼」という頂点カテゴリーがあって、次はそれに乗りたくなるんですよ。ちょうどフォーミュラKei二年目の最終戦の時のこと。結果がだせず悔しくて泣いていたら、なんと、たまたま通りかかった隼のオーナーさんが「来年自分は乗らないから、よかったらレンタルしますよ」って声をかけてくれたんです!「悔しい思いを来年晴らしたいでしょ?」っていう感じで。
 それまでは雑誌の企画での参戦でしたが「フォーミュラ隼」は自分で本格的にやろうと決心しました。Keiとは排気量もパワーも全然違うし、ちゃんとした体制でやらないと、と思ったんですね。レースに集中したいので記事は書かず、スポンサーを自分で集め、メンテナンスを筑波のガレージにお願いしました。ドライビングテクニックは人によって言うことが違うので、何が自分に取って正解かわからずにモヤモヤしていたんですが、レースのプロ集団がいるガレージに入って、それを確認する場ができたことで、本当の走りの基本を学ばせていただくことができました。自分の中でバラバラだったものが一つにまとまってきたんです。

恐さを取りのぞく。

 レースって普段自分の弱いところが出てしまうんで、自分が思うレベルに持っていくには、自分をコントロールしていかないと成し遂げられないと思ってきました。だから人と戦うというより、自分と戦っていたっていう感じです。勝つという結果よりも、まずそのコーナーをどれだけうまく走るかによってタイムが縮む。そこに喜びを見い出していたんです。クルマがクルマである限り、キチンと走らせてあげたいし、女だから運転が下手と思われることが嫌だったっていうのもありましたね。
 基本的には、恐さを取り除くっていうアプローチをしてきました。恐いからアクセルを踏めない。それなら恐くない姿勢に持っていって踏んでいければいい、というふうに恐さの原因を探りながら、いかに恐くなく気持ちよく走れるのかっていうことを目指してきた感じですね。
 ロードスターのパーティーレースで優勝したときは、これで正しかったんだって、自分のことをちょっとだけ認めてあげられました。
 '08年4月からテレビ番組に出演していますが、テレビっていう媒体は専門誌と違って、一般の人がぱっと見て入っていける世界なんです。クルマは難しい言葉が分かる人たちだけのものじゃなく、みんなでわかりやすく楽しみたいじゃないですか。クルマは「楽しいよ」っていうことを広めたいという私の目的のためには、テレビという媒体は非常に有効なんですよ。それを女性ならではの視点でいろんな人にアピールしたいんです。声を大にして言いたいのは「運転が苦手だ」っていう女性もちゃんと運転が楽しめるんだよ、「運転が下手だ」って頭ごなしにいわれてる人でも、そんなことはないんだよっていうこと。それをお伝えしたいし、女性だって、スポーツカーをカッコ良く乗って欲しいんです。

運転することの本質。

 これから自動車はEVになっていくと思いますが、ドライバーに求められるテクニックっていうのは残ると思うんです。エコドライブにしても、本当にエコに走らせるにはドライバーのアクセルの踏み方とか、気持ちの余裕とか、そういうテクニックって必要なんですよ。だから、動力がどうなっても、運転する本質は残っていくと思います。
 そんな中でもスポーツカーはやっぱり特別。私にとってスポーツカーは夢とか憧れの象徴です。例えば、機体が空を舞う飛行機のように、深い海に浮かんで進むことができる船のように、スポーツカーも自分の体一つでは体感することができない領域を楽しめるからこそ、ロマンを噛みしめられるんですよ。しかもスポーツカーは自分で運転することができるんです。クルマを単なる道具として見るんではなく、自主的に能動的に何かを掴むっていう姿勢は、やっぱりスポーツカーや走りの楽しいクルマじゃないと得られないもの、そんな風に思っています。

 
藤島 知子(ふじしまともこ)
神奈川県出身

幼い頃からのクルマ好きが高じて、スーパー耐久のレースクイーンを経験。その一年後、サーキット走行はズブの素人だったにもかかわらず、ひょんなことから軽自動車の公認レースに参戦することになる。以来、レースの素晴らしさにどっぷりハマり、現在は自動車雑誌やWeb媒体で執筆活動する傍ら、箱車にフォーミュラカーにと、ジャンルを問わずさまざまなレースに参戦している。
日本自動車ジャーナリスト協会会員、2008-2009カーオブザイヤー選考委員
藤トモ通信web
http://www.hobidas.com/blog/tipo/fujitomo
  現在の愛車はフィアット500。「スポーツカーじゃないんですけど、小さなエンジンでパワーを使い切るノビノビとした走りが凄く気に入ってます。そこにイタリアンデザインのかわいらしさがプラスされて、色んな人に暖かく見てもらえる。そんな魅力を感じているクルマですね」。
 

レースデビュー2年目の'03年にはKei sportsに加えて、Kei660ccエンジンの「フォーミュラスズキKeiスポーツシリーズ」にも参戦。 「はじめてのスリックタイヤだし、ハコと全然違うので、難しかったですね」。
 
 
 
  '05年、“フォーミュラ隼”にステップアップ。モーターサイクル用1300ccエンジン搭載の本格的フォーミュラカー。「横Gも大きくなるので首が太くなりました(笑)」。2006年シーズンシリーズ4位。
 
 
 
 

2007年、マツダのロードスターによるワンメイクの「パーティーレース」に参戦。女性として初のクラス優勝を果たした。
  
 

 
  テレビ神奈川「岡崎五朗のクルマでいこう!」のスタジオ収録風景。「実はしゃべるのが苦手なので、テレビが決まってから、アナウンススクールに通いました(笑)」。
 
 
 
  小柄な女性が運転しやすいか、スカートでの乗り降りは?と女性ならではの視点と、レースからの視点で幅広くクルマを評価する。

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