大学時代、必要に迫られ購入することになった車
単なる移動の足として見ていなかったその機械の塊が
クラシックビートルとの出会いで一転――
雑誌「Tipo」編集部に導かれるように入社して
数々の車との出会いを重ね、レースデビューも果たす
現在はカーライフジャーナリストとしてフリーの道を歩む
まるも亜希子さんに“激動のカーライフ”を聞く。

運命の車との出会い。

 高校卒業するまでは車に興味がなくて、免許を取るつもりもぜんぜんなかったんです。でも、大学に通うに当たって必要になり人生初のマイカーを購入。そこで、巡り合ってしまったのがクラシックビートルだったんです。もともと好奇心旺盛で、ひと目見てこれに乗りたいって頑なに(笑)。それまでは、車っていうと父が運転するセダンしか知らなかったわけですよ。快適に人を運ぶ機械。でも、それだけじゃないんだって自分で所有してみて分かりました。
 運転もそうですが、とくに車の中の空間も大好きでした。音楽を聞くにしてもビートルの中ではエンジンのバタバタバタっていう音だったり風とか、いろんなものが混ざり合う。誰かとお喋りをするにしても、景色が移り変わる空間の中でだと何か格別な気持ちになるんです。
 雑誌を読みあさったり、ワーゲンに乗っている友達とイベントに行ったりもしました。10数台でツーリングしながらイベントに行くと、何百っていう同じように車を楽しむ人たちがいて……そういうのも楽しくて、大学時代は車中心の生活でした。
 そんな中、あるイベントでカルマンギアというオープンカーに一目惚れしてしまったんです。当時の私には高くて買えなかったんですが、知人のショップで欲しいと言い続けてたら、ある日「似たような車で安いのがあるよ」と言われて、見てもないのに買うことに。それがFIAT124スパイダーでした。ショップの人のご好意で黄色に塗装したら、もう惚れ惚れ(笑)。

編集者になりたかった。

 大学卒業前から編集者になりたいと思ってて、色んな出版社を片っ端から受けたんですけど箸にも棒にもかからなくて……。どうしようか迷っている時、イタ車に乗るなら読んでおいた方がいいよと渡されたのが「ティーポ」でした。ふ〜んって思いながら読んでたら、編集者募集っていう求人が載っていて、すぐに面接を受けに行きました。124スパイダーに乗っているってことですごく話が合って、めでたくティーポ編集部員に。あの車に乗っていなかったらティーポにも出会ってないし、編集者にもなっていなかったなと思うと、私にとっては本当に運命の車だったんですよね。
 ただ、編集という仕事は大変でした。すごい量の知識が求められ、最初は周りの会話についていけず、「ジムカーナ観に行かない」って言われて「何それ、イギリス人ですか?」みたいなことも(笑)。でも、そういうのを一つずつ覚えていくっていうのにおもしろさを感じてもいました。


初レースで火が点く。

 モータースポーツに関しては、男性がやるもの、女が近づいてはいけない世界とずっと思っていました。でも「A級ライセンスを獲ろう」という企画で、私もA級ライセンス所持者になってしまった。そんな時に担当したのが、40代のオジサマ4人が自費でミジェットのレーシングカーをイチから製作してレースに出る連載ページ。中でもノンフィクション作家の中部博さんに目をかけてもらって、絶対に面白いからレースを始めてみなさいって勧められて。断ってたんですが、レーシングスーツだけはちょっと着てみたかったんです。「何色が着たいの?」って聞かれるから「ピンクなんかかわいいですね」って話をした翌週に、ピンクのレーシングスーツが届いたんですよ。もう引けなくなって(笑)。
 最初に参戦したのはFIATパンダのワンメイクレース。当然ながら散々な結果でしたが、その悔しさが私の中に火を点けて、ドライビングスクールに通ったり、アマチュアレースで経験を積んだり、レースと向き合うようになったんです。
 そういう日々の中で、04年のJOY耐において日本で初めてハイブリッドカーが公認レースを走る歴史的な日がやってきたんです。なぜか私もそのドライバーに抜擢され、エースドライバーとして参加した高橋国光さんと同じハイブリッドカーでレースをしたんです。今でも笑われるんですけど、それまで国光さんがどれほどすごい人かを知らなくて、「国さん、教えてくださいよ」って無邪気に話し掛けてて、周囲の人はすごく驚いていたみたいですが(笑)。
 日本のモータースポーツの黎明期からレースをして、今でも監督という立場で携わる国光さんと一緒に、しかも次世代の原動機であるハイブリッドのマシンでレースをしたっていうのが、ものすごいことなんだなと後になって分かりました。以後、JOY耐には5年間参戦して毎年完走。国光さんから学んだことすべてが、本当に今でも役に立っています。

04年ツインリンクもてぎで開催された「JOY耐」はJAF公認レースデビューでもあった。一緒に組んだドライバーは高橋国光氏、ノンフィクション作家の中部博氏、ホンダ栃木研究所の関根和弘氏(このマシンの開発ドライバー)。公認レースにハイブリッド車両で参戦・完走した女性としては国内初。以後、昨年までの5年間JOY耐に参戦してきた。
06年7月には秋田県の大潟村で行われたソーラーカー・チャレンジにも出場した。写真はソーラーカー
「Blue Bullet(ブルー・ブリット)」。激しい雨にも見舞われたが、3日間のレースを完走した。
 
JOY耐でチームメイトとなった高橋国光氏(右)。偉大な人物であることは知っていたが……。無邪気に接することで高橋氏からもかわいがられ、レースに対する姿勢、テクニック等を教わった。
 
 
3年前からはレーシングカートのレースにも参戦する。07年、ツインリンクもてぎで開催された「K-TAI」にはラリードライバーの新井敏弘氏を迎え、スバルチームを結成。女性を含むチームの中で最上位、ベストレディース賞を勝ち獲った。
 
 
マイカー2台目のFIAT124スパイダー。知人のショップ店員が見つけた当初は朱色で、「さえない感じで失敗したかなって思った」(まるも)というが、そのショップの計らいで好きな黄色に全塗装、見違える車になった。
 
       
 
 
まるも 亜希子(まるも あきこ)
千葉県出身

大学卒業後にTipo編集者となる。00年に国内A級ライセンスを取得、以後ジャンルを問わず様々なレースに挑戦。03年に独立して現在はカーライフ・ジャーナリストとして活躍。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。愛車はポルシェ968。
http://www.hobidas.com/blog/tipo/marumo/
   
         
 
 
 
 
 

大学時代に購入した「ビートル」をきっかけに
それ以前とはまったく異なる世界と接点を持つようになったまるも亜希子さん。
雑誌「Tipo」編集部入社。
そこで担当した仕事の延長線上にあったのは
想像したことがなかったモロッコで開催されるラリー参戦。
今回はその異国で体験した過酷な8日間と
ラリーを通して見えてきた自分の将来を語ってもらう。

どんどん野性化する自分。

 私のカーライフで、もうひとつ忘れられない体験があります。サハラ砂漠を走るガゼルラリーに突然、参加してしまったんです。国際格式ラリーなのですが、ライセンスが必要なく普通免許を持っている女性なら誰でも出られるっていうもの。以前のパリ・ダカールラリーと同じような場所を走るんですけど、距離は4分の1ぐらいの2500km。それを8日間で走り切ります。
 参戦する前年、ガゼルラリーへ取材に行ったパリ在住のライターの方がティーポ編集部に記事を売り込みにきて、そのページの編集を担当したのが私だったんです。写真を見た瞬間に引き込まれて、すごく憧れてしまったんです。その頃、自分自身のことで迷っている時期で、私もここに行けば何かが変わるかもしれない、と。写真の中の女性たちは、砂丘のど真ん中で車がスタックして汗だらけ砂だらけになりながら一生懸命に砂をかき出して……強い日差しが降り注ぐ過酷な世界の中でも失われない目の輝きが印象的でした。
 参戦車両はニッサン・サファリ、現地名はパトロールという3リッターディーゼルターボ車両をニッサン・ヨーロッパさんに提供していただきました。規則でGPSが禁止されていて、縮尺10万分の1ぐらいの地図と方位磁針しかラリーでは使えないどころか、その日のチェックポイントも当日朝に緯度、経度で発表されるんです。砂漠なので、それほど大きな目印があるわけでもなく、日本で言う道路もありません。車が通って踏み固められた獣道、砂漠、岩漠、踏むとパンクするようなトゲトゲのラクダ草が生えている草原を走ったり、川を渡ったり、想像以上に過酷でした。おもしろかったのが時間が経つうちに自分が野生化していくこと。たとえば、ここからあの山が何km先かなんて日本で生活していたら分からないじゃないですか。でも、あの距離だったら1.5kmぐらいかなと分かってくる。どこ見ても一緒のような景色だったのが、ここさっき通った場所だなっていうのも分かるようになってくる。どんどん野性化する自分に驚きでした。
 日本人チームは私たちだけで他は欧米中心。その大陸感覚を間近に見て、圧倒されました。狩猟民族、農耕民族の違いなんでしょうか? 欧米の女性たちは、私が死に物狂いで参戦するガゼルラリーを「バカンス」って言うんです。涼しい顔でワインを飲みながら「こんな砂漠の真ん中でラリーができるのって、人生でたった8日間しかないんだから楽しまないと」ってさらっと言ってしまえる。それって普段からの車との関わり方がちゃんとできている上でラリーに来ているからこそ言えること。そういう車先進国の女性と出会えたことは私にとって大きな経験でした。

チャレンジし続ける。

 今でも忘れられないのが子供たちの顔ですね。モロッコってそれほど裕福な国ではありません。サハラ砂漠にはベルベル人っていう原住民がいて、その子供たちは車のエンジン音が聞こえると「食べ物をくれ」「水をくれとか」「頑張れ」とか言いながら遠くから走って集まってくるんです。裸足で、着ているものはボロボロ。食べるものもろくにないけど、生きることに真剣な姿勢がすごく感じられて日本での自分の生活や考え方を改めなければって感じましたね。あと車を見る子供たちがすごく笑顔なんです。車って子供たちを笑顔にすることもできるんだっていうのも初めて知りましたね。
 うれしいのが、今年になってある女性から「ガゼルラリーに出てみたいんですけど、相談に乗ってもらえませんか」と連絡をもらったこと。最近の日本では、無謀な夢に向かっていく女性が少ない気がします。お金のためでも誰かのためでもなく、自分のために挑戦する人が少ない。皆、どこか安定志向で「何かあったらどうしよう」と挑戦する前から心配ばかりしてる。だから、その連絡があって本当にうれしく思いました。
 まだ形は見えないんですが、そういったチャレンジする女性の応援というのも今後私がやっていきたいことのひとつです。自分の好きな車を1台買うのも立派なチャレンジ。世界が変わり、人生が変わります。自分の経験を通して、私なりの伝え方やサポートで日本の女性を応援していければいいなと思っています。

 
最近は中国にハマっていて、4月にも上海オートショーを取材したばかり。昨年の北京と比べても中国メーカーの完成度はレベルが飛躍的にアップしており、人々がクルマへの憧れや興味をどんどん募らせている過程という雰囲気も、とても興味深いので目が離せないと注目している。
2500kmの行程で最も難しいのが砂丘地帯。低速すぎるとタイヤが埋まってしまうが、先の地形が見えないのでむやみにスピードも出せない。蛇行しながらの独特な走り方が求められる。
ラリー車にはビーコンが搭載され、緊急時にスイッチを押すと救助を求められる。「1年目の04年は2日目に押すはめに……。砂丘で大ジャンプをしてしまい、車も壊れパートナーもケガをしてしまったんです」。
このガゼルラリーで、まるもさんは日本人チームとして初挑戦、初完走という記録を樹立。挑戦したいという自らの衝動だけで進めてきたが、「やっぱり挑戦して良かった」と思える感動がゴールの先にはあったという。参戦は04、05年の2回。
ティーポ編集部を卒業して現在のカーライフジャーナリストになってからはラジオ出演やトークショー、講演なども数多くこなし、自らの経験を通して日本の女性へメッセージを発信。写真は08年の東京オートサロンでのMAZDAブースでのトークショー。観客の反応を確かめながらのライブ感覚が好きだという。
 
       
 
 
まるも 亜希子(まるも あきこ)
千葉県出身

大学卒業後にTipo編集者となる。00年に国内A級ライセンスを取得、以後ジャンルを問わず様々なレースに挑戦。03年に独立して現在はカーライフ・ジャーナリストとして活躍。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。愛車はポルシェ968。
http://www.hobidas.com/blog/tipo/marumo/
   
         
 
 
 
 
 

07〜08年に国内最高峰であるフォーミュラ・ニッポンで連覇
世界最速のハコレース「スーパーGT」でも毎年優勝を重ね
現在、国内トップドライバーの地位に君臨する松田次生選手。
天才肌ではなく努力家だったと自身が語るように、
負けず嫌いの性格が上昇気流を生み、彼を頂点まで導いた。
しかし、わずかな気の緩みから「転落」を経験――
そんな過去の苦闘時代と再起までの道程を振り返ってもらう。

佐藤琢磨に勝つために。

 物心つく前からミニカーが好きで、小学校ぐらいからほとんどの車の車種を言い当てることができたぐらい覚えていました。スポーツカーが目の前を通るたびに、あれ何、あれは何、マフラーが換わってるとか、とにかくマニアックな少年で(笑)。
 レーシングドライバーというのを意識し始めたのは、F1日本GPを初めて見た時からです。それからレーシングカートを始めて、鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ(SRS‐F)に入校したのが97年。僕が自動車の免許を取れる18歳になる年です。同期には佐藤琢磨選手、金石年弘選手の他に、全日本カート選手権に出ている人がたくさん応募していて、選ばれるだけでも大変なことでした。しかも同期の琢磨選手や年弘選手は運転免許を持っていましたが、僕は免許も持たずマニュアル車の経験すらありませんでした。入校当初はかなりハンデがあり、それがタイムとしても表れていましたね。だから、その年の6月に免許を取ってからは必死でした。新車のシビックを買って鈴鹿サーキット南コースでヒール&トゥの練習をしたり、一般道を走ってて信号で止まる時もシフトダウンの練習をしたり。とにかく皆よりも遅れているから、そういう部分で努力するしかなかったんです。
 その甲斐があって、スクール卒業は琢磨選手、金石選手に次ぐ3位で卒業。翌98年から全日本F3に参戦する道が開けました。ただ3番目なのでテスト時間も少なく、レースはほとんどぶっつけ本番なんですよ。だから各サーキットを覚えるために、自分のシビックでまず走り込みに行ってました。3ドアのシビックだったので宿泊もリヤのシートを倒せば寝られるので、積んでいった布団を敷いて車中泊なんてこともありましたね。当時は頑張るしかないと思っていたので苦痛ではありませんでしたが、そういった姿勢っていうのが大事だなというのは今でも思います。F3デビュー戦、SRS‐Fではずっと負け続けていた琢磨選手や年弘選手より好結果だったし、ふたりよりも先に初優勝を挙げられました。努力が結果として実ったわけです。でも、人間ってすごく弱い生き物ですよね。上昇気流に乗っている時は、自分がすごいんだと思い込んでしまって、周りの支えや自分自身の努力のことを忘れてしまう……。

知識がゼロだった。

 98年、欠場者がいたため代打でフォーミュラ・ニッポン(FN)にスポット参戦して4位。いきなり入賞して周囲から注目され、翌99年にはF3のマカオGPで4位、00年からレギュラードライバーとしてFNにステップアップして3戦目にいきなり初優勝。トントン拍子に結果が出て、そこでちょっと天狗になってしまったんです。こんなに楽に国内最高峰のフォーミュラレースで優勝できて、自分ってすごいのかなと思ってしまったんです。SRS‐F時代に比べると、努力も怠っていました。
 F3より上のフォーミュラレースにおいては、ドライビングテクニックだけでなくドライバーがマシンを正しくセットアップできる能力が問われます。そのためには車の構造や理論など、専門的な知識が必要になります。それを僕はまったく勉強していなかったんです。要は、車はドライビングテクニックだけで速く走らせられると勘違いしていたんです。自分が3戦目で初優勝できたのはチームが用意してくれた速いマシンがあったから、上位陣に混乱があり運が良かったから、そういうことを考えられなかった。マシンをセットアップできないので、成績はどんどん落ちていきました。02年に所属したトップチームをクビになって初めて、気がつきましたね。戦闘力のないマシンで03年以降参戦する中、自分はこれまですごく恵まれた環境にいた、ずっと自分自身の努力を止めていたな、と。
 03〜05年は本当にどん底の中でのFN参戦でした。結果は出ない、翌年のシートも危ういという。ただ自分に足りなかったもの――マシンを速くするためのセットアップの勉強は貪欲なぐらい勉強しました。本当にゼロから、努力を積み上げていったんです。(以下次号)

 
上昇気流で一気に国内最高峰フォーミュラまで登りつめ後に待っていた「試練」。写真はゼロから再出発するために決意を固めた03年当時。
 
97年から地元の三重県鈴鹿サーキットで開催されるレーシングスクール(SRS-F)に入校。松田同様にスカラシップを勝ち取った卒業生の中には佐藤琢磨もいた。
 
F3参戦2年目の99年、全日本シリーズでの成績こそランキング5位だったが、1年に1回開催されるマカオGPでの世界一決定戦で総合4位に輝き注目を集める。
 
00年から国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンに参戦。F1帰りの高木虎之介、後にF1へステップアップしたラルフ・ファーマン(写真)ら、松田のチームメイトは常に強力ドライバーだった 。
 
03年以降は戦闘力のないマシンを駆りフォーミュラ・ニッポンに参戦。気持ちは先走るが、結果が伴わない日々が続いた。
 
       
 
 
松田 次生(まつだ つぎお)
1979年生まれ 三重県出身

14歳からレーシングカートを始め、97年にSRS-F卒業。98〜99年全日本F3参戦、99年のF3マカオGPでは総合4位を獲得した。00年からフォーミュラ・ニッポン(07〜08年チャンピオン獲得)、スーパーGTの国内最高峰レースに参戦し、両カテゴリーでトップドライバーとして活躍中。現在の愛車はフェアレディZ 。
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