デビュー3戦目のルーキーで優勝を手にした松田次生選手だったが
国内トップフォーミュラはそれほど甘い世界ではなかった。
勉強を怠り成績は転落。気づけばどん底まで落ちてしまっていた。
そこからの再生の中で強さを磨き今の地位に辿り着く日々と
彼が日常的に車とどう向き合ってきたのかを今回は語ってもらった。

フォーミュラ好き。

 国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンでどん底をさまよう中、上昇の兆しが結果として現れたのが05年の最終戦、地元の鈴鹿サーキットでのレースでした。常勝のチームインパルやナカジマレーシングを押さえて、僕がポールポジションを奪ったんです。自分が勉強してきたことがようやく形になったとあの時は思いましたね。
 最終的にその時のポールポジションが、僕のレース人生の大きな転機になりました。翌06年にチームインパルへ移籍することになり久々に優勝することができ、07〜08年は全日本チャンピオンを2年連続で獲ることができたのですから。
 どん底での痛い経験は今でも忘れていません。自分に過信しない、努力なしに1番にはなれない。それは僕の中に深く刻まれています。決して満足しないというか、常に完成形を目指すけど優勝したら完成というわけではないのです。向上心を失ったら、レースという世界では長く生きられないことも学びました。
 00年から全日本GT選手権(現スーパーGT)にも参戦していますが、僕はやっぱりフォーミュラが好きですね。フォーミュラマシンって、すべてが速く走るために作られたものじゃないですか。一般車だとパワステやエアコン、カーナビが付いていたり、いろんな装備があります。それは快適を求めるためだから否定はしないけど、フォーミュラはまったく違うコンセプト。自転車で例えるなら、3万円の街乗り自転車と30万円のロードバイクほど違う。そこで求められるのは純粋に速さのみ。そんな世界に身を置いていることが一番の幸せでもあります。

自分だけの1台。

 レースの世界で研ぎ澄まされた車に乗ってきた影響もあると思います。日常ではやっぱりスポーツカーに惹かれてしまいますね。とはいえ、免許を取ってすぐに買ったのがシビックEG。お金がなかったのでタイプRは手が出なくて(笑)。その後00年にインテグラのDC2タイプR。04年にインテグラのDC5に乗り換えて、ニッサンに移籍してフェアレディZを借りて、そこでZって面白いなって感じたんですが、すぐにムラーノに乗り換えることになりました。ムラーノもすごくいい車だなって思うんですが、オートマ車って何か退屈なんですよね。マニュアル車は街中でもブレーキを踏まず、エンジンブレーキだけで止まれる。今のオートマ車はシフトチェンジの制御も上がってはいますが、僕の中ではやっぱりマニュアル車に乗らないと車を操っているっていう感覚を得られないんですよ。だから、またフェアレディZに乗り換えることにした。それが今の愛車です。最近デフをいじったり、スポーツ触媒を付けたりコンピュータを換えたり結構いじってます。ただ一番手を入れたのは、初めて買ったシビックですね。自分で買った最初の車というのもあり、相当愛着がありましたからね。
 足回りはもちろん、ロールバーを入れたり、サーキット走行のための牽引フックを付けたり、コンピュータやマフラー系まで……。車って応えを返してくれるんですよね。レースで言うセッティングもそうなんですけど、自分が乗っていてこうしたい、このパーツを付けたらこうなるっていうのが分かってくるとすごく楽しくなるんです。それでもっともっと愛着が沸いてくるっていうのがありますよね。手放す時はかなり悲しかったです。
 その最初に買ったシビックは一番安いグレードだったので、本当に何も付いていませんでした。でも、それがすごく車へのモチベーションになった部分はありますね。これにカーナビ付けるために仕事を頑張ろう、足回りを換えるために仕事を頑張ろうって思えるんですよ。
 最初からできた車を買ってしまったら、こういう気持ちは味わえません。人間て完成したものを手にすると、すぐに飽きてしまうんですよ。完成していないものに対してはこうしたい、こうやっていきたいって思うじゃないですか。同じ車種って日本国内でもすごい台数がいるわけです。でも自分好みのエアロを付けたり、ホイールを換えたり、内装に手を入れたり、それだけで自分だけの1台になります。未完成なものを完成形に近づけていく過程を楽しめるか。人生においても車との付き合いにおいても、それが一番大切なことだと僕は思っています。

現在、サーキットや契約するファクトリーへの移動で使っている愛車のフェアレディZ。「本当はもっと手を入れたい」というが、最小限のチューンに留めている。
 
 
Zを選んだ理由のひとつがマニュアル車であること。「日常の運転でも操る楽しみを感じたい」。最近はロードバイクも購入して、時間があれば都内を走り回っている。
 
 
ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ08年。圧倒的な強さは最後まで衰えることなく、見事にフォーミュラ・ニッポン連覇を達成した。
 
 
今年はフォーミュラ・ニッポンマシンが一新。シャシーがヨーロッパのローラ社製からアメリカのスウィフト社製に変更され、求められるドライビングも変わった。勝利が遠く「少し苦労している」が、3連覇への気持ちは薄れない。
 
今年のトヨタモータースポーツ活動計画では、2連覇チャンピオンとして出席。03〜05年のどん底をさまよった頃とは打って変わって、日本モータースポーツ界のトップへと駆け上がった。
 
       
 
 
松田 次生(まつだ つぎお)
1979年生まれ 三重県出身

14歳からレーシングカートを始め、97年にSRS-F卒業。98〜99年全日本F3参戦、99年のF3マカオGPでは総合4位を獲得した。00年からフォーミュラ・ニッポン(07〜08年チャンピオン獲得)、スーパーGTの国内最高峰レースに参戦し、両カテゴリーでトップドライバーとして活躍中。現在の愛車はフェアレディZ 。
http://www.tsugio.com/
   
         
 
 
 
 
 

憧れ続けていたレース活動をオーストラリアでスタートさせ日本国内へ
頂点F1を目指して底辺からはいあがっていく吉本選手が武器にしてきたのは
オーストラリアで身につけた語学と、
誰かに期待したりするのではなく何でも自分から動いていく行動力。
FJ1600という入門フォーミュラからF1直下GP2までの
階段を駆け上がった吉本選手の苦闘の日々をひも解く。

レースをするために日本へ。

 父親の仕事の関係でオーストラリアとの接点があり、小学校6年生になってすぐの11歳から18歳まで、僕はオーストラリアに住んでいました。14〜15歳の時だったと思うんですが、友達の家に遊びに行った時に古いレーシングカートが眠っていると聞いて、それをもらえることになったんです。その時点で15年落ちぐらいのカートやったんですけど、中古のエンジンを買って、タイヤもゴミ箱から拾ってというめちゃくちゃなマシン。僕自身、知識もないから走らせ方も知らなくて、ガソリンを混合しなければいけないことすら知りませんでしたが、それで数回走らせたのが僕のレース活動の原点でしたね。
 レースをやりたいという気持ちは小さい頃から持っていました。ただ、オーストラリアで日本人がレース活動をしていくっていうのはすごく難しいんです。実績もないし、スポンサーも取れない、日本でやるより困難。オーストラリアってレースが盛んなんですが、ツーリングカーのレースが人気でそれがメイン。僕の中ではF1ていう大きな目標があり、底辺からフォーミュラカーレースをやらなければいけないことも分かっていました。だから18歳になってレースするために日本に帰ることを決意したんです。オーストラリアで乗っていた乗用車売って日本までの航空券代を作って。
 日本に戻ってレース雑誌でレーシングガレージを調べて、まずはそこを訪ねました。しばらくはパチンコ屋の寮に住んで、朝から晩までパチンコ屋でバイトをしながら、そのお金をレースに注ぎ込む生活を送っていました。
 日本国内での最初の4輪レースはFJ1600というカテゴリーです。2回練習して、すぐにレースに出始めて半年で卒業して、翌年の00年にはフォーミュラトヨタというカテゴリーにステップアップしていました。フォーミュラトヨタでは、4位、5位がやっと。資金的に厳しく、他チームにブレーキパッドをもらったり、オイルも支給されたものを使ったり。そのシーズンは資金的なスポンサードを受けてもいたんですが、結果が残せなかった1年で何もなくなってしまいました。

ヨーロッパでつかんだチャンス。

 本当に何もなくなってしまった時、ウエストという日本のコンストラクターが韓国でF1800というレースをやっていることを知ったんです。幸いにもスポンサードしてくれる企業が見つかり、そのF1800にスポットで1戦出るチャンスをもらえました。レースの結果は2位だったんですが、僕の走りを見てチームが「来年、お金はうちが持つから乗ってみないか」と誘ってくれたんです。
 韓国ってレベル低いように思うけど、バンピーでせまいし、すごくコースが特殊で覚えることが多い。走行時間も日本とは比較にならないぐらいたくさん走れる。それで走り倒して僕はチャンスをもらった01年にチャンピオンを獲ることができました。チームは「来年も一緒にやろう」という声を掛けてくれていたけど、僕はさらに上を目指したい気持ちが強く、F1800に参戦する傍ら、トヨタが日本国内で開催するFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)にも参加していました。02年は最終的にトヨタの支援を受けて全日本F3を走れることが決まったので再びレース活動の拠点を国内に移しました。ただエンジニアがいないチームだったりハード面で強豪チームに届かなかったりして、1回優勝することはできたけど、2年間戦った全日本F3で目立った成績は残せませんでした。また「翌年はシートがないな」という雰囲気が漂ってきたので、ヨーロッパでシートを得るためにスイスレーシングというチームにコンタクトを取ってみたんです。F1に行くためには、ここで足踏みをしていてもダメだって。交渉の結果、ホッケンハイムでのテストに参加できることになり、すぐに向かいました。
 そのテストではニコ・ロズベルグとか現F1ドライバーの姿もあり、自分が飛び込んだ世界の大きさをまず知りました。テスト当日の天候は大雨で僕は大クラッシュをしてしまうんですが、当時ユーロF3を走っていたドライバーたちよりもタイムは速かった。それでチームに認められ、クラッシュでこっぱ微塵になったマシンの修理代もいらないというぐらい、最終的に僕を見込んでくれたんです。それが、ヨーロッパへの扉が開けた日でした。(以下次号)

 
 
 
 
 
11〜18歳までオーストラリアで育ったためか、日本のレース界ともしっくりこないところがあったのは事実。再び海外へ羽ばたいたフォーミュラコリア時代は伸び伸びレースをしていた。
 
 
99年日本に戻って間もなく、FJ1600を始めた頃。どうやったら上級カテゴリーに上がれるのかも分からずガレージを訪ね、半年で卒業してフォーミュラトヨタに挑戦する。
 
 
F3で認められた後、05〜06年はGP2に参戦。メーカー支援を受けずにヨーロッパでレース活動を続けるのが厳しい時代にそれを貫くように実践。堪能な英語を武器にチーム交渉もほぼ自力で進めF1まであと一歩だった。
 
 
 
       
 
 
吉本 大樹(よしもと ひろき)
1980年9月2日生まれ 大阪府出身

99年にFJ1600で4輪デビュー。02〜03年に全日本F3に参戦し、05〜06年はF1直下のGP2に挑戦。国内ではトヨタの支援を受ける時期もあったが、ヨーロッパでの活動はすべて自分で交渉して道を開いてきた。ヨーロッパに戻ることを誓いながら、07年以降は国内に戻り、09年はS耐、スーパーGTで活躍中。
http://www.hiroki-yoshimoto.com/
   
         
 
 
 
 
 

レースをするためにオーストラリアから日本に戻り、
FJ1600という底辺からレースキャリアをスタートした吉本選手。
語学力と行動力でワンチャンスを逃さず欧州への扉を開き、
F1直下GP2まで上り詰めた矢先に、いきなり将来が白紙に……
夢が散った07年、
再び国内に帰ってきてから彼が進めているのは、
閉ざされた扉を再び開くための準備だった。

F1まであと一歩。

 最終的にチャンスって待っていても向こうから来ない。自分から探しに行かないと。国内でレースをやっている時、自分が出ていないレースにもすべて顔を出していました。チャンスはどこに落ちているか分からないし、行かないより行った方が見つけられる可能性は高いので。あとチャンスを生かすためには本番に強くないといけません。チャンスって何回もあるわけじゃなくその瞬間しかないから。レースの場合だとテストをさせてもらい(テストさせてもらうまでにも高い壁がありますが……)、そこで関係者をうならせるタイムを出す。それが一番。そこでタイムを出せなかったら終わり、その先にはまったく何もない。僕の場合、ここでチャンスつかめなかったら明日からコンビニでバイトでもするかっていう状況だったんです。そういう局面に行けば誰でもできるはず。もしできないのなら、それは極限まで自分を追い詰めていないんだと思います。
 ユーロF3選手権に参戦しているスイスレーシングがテストで認めてくれ、03年F3世界選手権マカオGPと、コリアSP参戦のチャンスをつかめヨーロッパへの扉が開けたと前回お話しましたが、その先の道が何も決まっていませんでした。白紙だった04年は国内に戻り、以前からかわいがってもらっていた5ZIGENの木下社長のもとでアコードを走らせました。また別で、JGTCでヴィーマックを走らせるチャンスをもらったり。そんなシーズンを送る中、レースマネージメント会社から連絡があったんです。ワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦するドライバーの通訳をやってくれる人を探していると。チャンスだなって思いましたね。
 通訳で行ったレースの翌週にテストがあって、そこにはさりげなくヘルメットとレーシングスーツを持って行きました。目的は僕自身もテストに参加するためです。事前のレースでしっかりと任務をこなし、いざテストの時になって「10分でいいから乗せてくれ」とマネージング会社とチームに交渉し、走らせてもらいました。最終的に残り2戦そのワールドシリーズ・バイ・ニッサン参戦の約束まで漕ぎ着けました。車がねじれててアライメントも出ないようなマシンでの参戦だったので結果はイマイチでしたが、それがさらに次のステップにつながった。マカオGPがきっかけで知り合ったマネージャーがヨーロッパのF3000テストができるように取り付けてくれ、またそのテストでの調子が良くて(笑)。コンディションも良かったんですけど、レコードタイムより1.5秒速いタイムを出せたので、05年のGP2参戦に繋がったんです。2年目の06年はF1のチーム関係者ともすごくたくさん話をして、F1参戦まで本当にあと一歩というところまで話が進んでいました。

意地でもリベンジしたい。

 歯車が狂ったのは、F1参戦に向け10年契約していたマネージメント会社が急に「辞〜めた」と言い出したこと。何よりそれが07年2月に起こったのが痛手でした。シーズンイン直前だったので。また全て白紙に逆戻りですよ。
 国内に戻って5ZIGENの木下社長の元に毎日通って、何とか空いていたフォーミュラ・ニッポンのシートに座らせてもらえることになった時はホッとしたけど、そこからがまたイバラの道で……。08年は過去最悪最低なシーズンでした。何をやってもうまくいかず成績も散々。起用してくれた木下社長のためにも結果を残したかったんですが。思い出しても嫌な気分になる、二度と経験したくない1年です。
 その年の暮れ、GP2アジア参戦で自分の力が劣っていないことを確認できたのがせめてもの救いでした。アジアでフォーミュラルノーV6を走らせているチームのオーナーが連絡をくれたんです。そのレースはオーディション的にGP2アジアのドライバー選定も兼ねていて、僕はレースで優勝してGP2アジア参戦の切符を得られました。Fニッポンで落とすだけ評価を落としてて、自分のドライビングがおかしくなったんじゃないか……と思うこともある中、自分が間違っていないとそこで確認できたんです。
 今年もレースの拠点は日本国内で、S耐とスーパーGTに参戦しています。もちろんヨーロッパのレースに戻りたいって気持ちが強いけど、それよりもFニッポンでリベンジしたい気持ちが今は一番かもしれません。あのままでは終われない。ただの意地ですけど、あんなもんじゃないっていうのを証明したい。そのチャンスを今は探している最中です。

 
08年に参戦したGP2アジア。ここで活躍してヨーロッパのGP2へ返り咲く道も模索したが、トップチームの資金的な壁に断念せざるを得なかった。
 
 
 
 
09年は再び5ZIGENのNSXでスーパー耐久シリーズを戦う。
第5戦で勝利、現在ランキング2位でチャンピオン争いに加わっている。
 
 
 
07年に国内へ戻り5ZIGENからフォーミュラ・ニッポンに参戦。最高13位、シリーズノーポイントという苦しい結果だった。
 
 
 
レースと平行して「doa」という3人組のバンドのヴォーカルも務める。8月にはニューアルバム「FRONTIER」をリリースしたばかり 。
 
 
 
 
       
 
 
吉本 大樹(よしもと ひろき)
1980年9月2日生まれ 大阪府出身

99年にFJ1600で4輪デビュー。02〜03年に全日本F3に参戦し、05〜06年はF1直下のGP2に挑戦。国内ではトヨタの支援を受ける時期もあったが、ヨーロッパでの活動はすべて自分で交渉して道を開いてきた。ヨーロッパに戻ることを誓いながら、07年以降は国内に戻り、09年はS耐、スーパーGTで活躍中。
http://www.hiroki-yoshimoto.com/
   
         
 
 
         
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