レーシングカート時代にコースオフィシャルの仕事を手伝う中で、
「レースアナウンサー」の仕事と出会い、それを本業に――。
最初は好きという気持ちが先行して自分も楽しんでいたが、
ビッグレースの実況仕事をする中で喋ることへの意識が変わっていき、
今は観客席第一を目指してマイクに向かって喋っている。
少し違う視点からレースや車を見てきた
ピエール北川さんに話を聞く。

始まりはノリと真似。

 もともとモータースポーツが大好きで、出身が三重県なので自分の中で鈴鹿サーキットっていうものが子供の頃から身近にありました。週末になればサーキットから車やバイクレースのサウンドが聞こえてくるのが当たり前だったんです。自然と僕自身もレースをやりたいなって思って運転免許を取ってすぐにジムカーナを始め、19歳の時にはレーシングカートを買いました。それでカートにハマって、しばらく真剣にやってましたね。
 そのカートレース活動と並行して、空いている時はカートコースのコースオフィシャルをやっていました。そんな生活を何年か続ける中、たまたま仲間内でレースをやることになり、オフィシャルの延長で『マイクを持って喋ってみたら』という話になったんです。カラオケでマイクは持ったことあるけどレース実況っていうのはぜんぜんイメージできないから最初は半信半疑。ただ92〜93年のその頃ってF1人気がすごくて、フジテレビのF1中継と言えば古舘伊知郎さんが実況していて、僕はそれが好きでよく見ていました。じゃあその真似事でもするかってノリでやってみたら、すごくウケて(笑)。次の公式戦カートレースでも『選手紹介ぐらいからアナウンスやってよ』と言われ始め、僕自身も楽しめたのでそれも引き受けて……始まりはそんな感じでしたね。

営業したことがない。

 岐阜県にある瑞浪レイクウェイというカートコースが僕の主戦場で、そこでレースに出ながらオフィシャルしてたまに喋る。そうこうしているうちにレース資金が枯渇して、オフィシャルばかりやるようになり自ずと喋る回数も増えていった。そしたらコースの人から『もう年間でやってくれ』という話をもらったんです。それまでディーラーや外車販売員をやってきたけど、お客さんに心から喜んでもらったっていう経験がいまいちありませんでした。でも、実況していたら皆が喜んでくれる。これが仕事になったら面白いだろうなって思いもあったし、当時はカートレース専門アナウンサーという分野自体がなかったので、挑戦したい気持ちもありました。自分の中で3年やってみてモノにならなかったら辞めようってことで、24歳(94年)から仕事として本格的にスタートしました。
 瑞浪レイクウェイ以外に、僕が入っていたカートチームがレース主催も手がけていて、北陸地方のグランドサーキット芦原でも実況させてもらいました。とりあえずそのふたつのシリーズ戦で実況をしてたんですが、すぐに大きな仕事の話も。94年の暮れにカート専門誌の編集部から電話が掛かってきて、『今、鈴鹿で若いアナウンサーを探しているっていうんだけど、(ピエールのこと)紹介しておいた。面接に行ってくれるかな』って言われて。びっくりしながら鈴鹿へ面接に行ったら、とりあえず95年の最初の全日本カート選手権で喋ってみて良ければ今後も継続してっていう話をもらえて、そこで喋ったらトントン拍子に『鈴鹿のカートレース実況を全部やってください』『鈴鹿のクラブマンレースも全部やってください』『サンデーロードレースもやってください』っていう流れで。ただ好きでカートレース実況をしていたら、周りの人がどんどん引き上げていってくれたんです。
 徐々に活躍フィールドが拡大していきましたが、最終的に分かったのは僕がレースバカということ(笑)。ラジオのパーソナリティの仕事ももらったりしましたが、週末に生放送とかぶってしまうのが嫌で。練習走行から見て、それを踏まえた上で誰が調子がいいとか、こういうふうにレースが展開するんじゃないかなと自分で読んだ上で取材して喋るっていうのが僕のスタンスなんです。レースにおける練習走行って金曜日から始まるので、そこをどうしてもカットされたくない。だからラジオもケーブルテレビも一切辞めて、レース実況一本に絞りました。まあ取材と言っても自分では散歩って思ってます。昨日何食べたとか、この前のレースでクラッシュしてたねと軽い感じでドライバーたちと接しているので。
 自信持って言えるのは、僕は専門学校へも行ってないし喋りに関してはすべて独学っていうこと。カートレースってとにかく数が多い。毎週どこかでやってます。当時は土曜や平日のレースもあったので、月に7〜8回レース実況したこともあります。そうするともう現場第一ですよね。現場で喋ってみて人からアドバイスされたり、あるいは自分が喋らないレースを観に行って先輩アナウンサーの喋りを盗んだり。本を読んだりして知識を吸収することもありましたが、基本は現場をこなしていく繰り返し。プラスアルファで、自分がカートに乗っていた時の経験が活きてたと思います。

07年にHDX(ハンドドライブクロス)というステアリング、アクセル、ブレーキ操作すべてを
手で行う特殊なカートレースに参戦。かつて自分がレーシングカートをやっていた頃の熱い気持ちが甦った!?
 
 
 
 
 
06年の東京オートサロンのスバルブースにて。レース実況以外にも、モータースポーツ関係のイベントで活躍する。
 
 
 
 
 
 
 
こちらは05年の鈴鹿ラリーフェスタ。モータースポーツにおいてもジャンルに捕らわれることなく、幅広く仕事をこなす。
 
 
 
       
 
 
 ピエール北川 (ぴえーる きたがわ)
 1970年6月2日生まれ 三重県出身

レーシングカート活動と同時にやっていたオフィシャルの仕事の中で出会った「レース実況」。94年から地方カートコースで本格的にスタート後、鈴鹿サーキット、ツインリンクもてぎといった日本を代表するサーキットからも声がかかる。観客席に呼びかける独自の参加型実況が人気で、今年鈴鹿開催に戻ったF1日本GPをはじめ、2輪の鈴鹿8耐、もてぎ開催のインディ・ジャパン等のビッグレース場内実況でも
お馴染み。
http://ameblo.jp/pk-racing
   
         
 
 
 
 
 

忠実に抜いた、抜かれたといったレース展開を伝えるのがレース実況の仕事ではない。
自分が楽しいだけではダメ。
そんな気持ちをピエール北川さんが持ち始めたのは、
日本にやってきたあるビッグレースの実況をした時だった。
サーキットに「また来たいね」のひと言のために、
ピエールさんの喋りやスタイルは徐々に変化をしていく。

魅せる実況を観客に。

 最初は自分も楽しいから喋る仕事を続けていましたが、鈴鹿でNASCARの仕事をさせてもらってから考え方が変わりました。アメリカのレースってそれまであまり日本に入ってこなかったじゃないですか。NASCARが日本に入ってくるってことで予備知識的にいろいろ調べてみると、レースの数も多いし、ファンサービスもすごいし、スポンサーのカラーも洗剤だとか電気屋だとか生活密着型。とにかくファンに対してのサービスがすごいなと思いましたね。お客さんを楽しませてナンボやみたいな。
 それに対して日本を考えてみると、ヨーロッパから来るちょっと敷居の高いF1を筆頭として、同じレースと思えないほどまったく違うものでした。当時、僕の先輩のアナウンサーがNASCARで実況をする時に『これはエンターテインメントだ』って教えてくれました。アメリカのエンターテインメントを初めて日本に持ってきて、お客さんにどう楽しんでもらうか。レースの抜いた、抜かれたももちろん面白いけど、トップが独走しすぎていたらペースカーを入れてレースをコントロールしたりとか、車体同士がぶつかってボディがバキバキに壊れて骨組みだけになっても走っちゃうとか、とにかく魅せるっていうことに対しての面白さっていうのをいろいろと僕に教えてくれました。実際、鈴鹿に来たアメリカのドライバーやオフィシャルたちからもそういう気持ちが感じられました。サーキットっていうスタジアムみたいなところに、交通費やチケット代をたくさん払って見に来てくれた人がいかに最後は喜んで面白いレースだったな、また来たいねって帰ってもらうかというのを大事にしないといけない。自分達が楽しいだけじゃダメなんだ……と。それからですね、変わったのは。それまで自分の実況は抜いた、抜かれただけの情報しか提供できてなかったんだなと。
 だから、今では客席に呼びかけたりとか、旗振れ何だのって。旗を振りたい人は勝手に振っているのに、僕はあえてあおりますからね。耳障りな人には相当耳障りだと思うんですけど、それはもう僕のスタイルなんで(笑)。

モータースポーツを生活の中へ。

 こういう仕事をしていると、やはり誰かの不幸に対しては敏感になりますね。この仕事をやり始めてすぐに、アイルトン・セナがF1で亡くなりました。僕の友人でもありカート仲間だった人もレースで失いました。それは僕が実況を始めてすぐの時です。2輪でも加藤大治郎選手が大きい事故で亡くなったレースを、偶然僕が実況していました。
 改めて思うのは、モータースポーツは危険をはらんだスポーツだということ。でもただ危険だから、危険だからっていうのを声高に言うつもりはないんですけど、ひとつ間違ったら非常に危ないっていう事実があるのに、ただ楽しく伝えるだけにはできない。シリアスな場面に直面すると、本当に僕はこの仕事をやっていていいのだろうかと自問自答する時もありました。でもね、やっぱりレースが好きだっていうことと、選手達が必死に戦う姿から感動を感じることで、またがんばろうと気持ちが戻ってくるんです。
 数えてみれば93年からやり始めて94年でプロとしてやりますって始めて、今年09年なので15年。自分の中ではある程度のところまできちゃったなという気持ちもあります。F1やインディカーといったビッグレースでの実況もさせてもらえるようになりましたしね。
 だから今の自分を考えた時、何ができるかって思うと、モータースポーツが長続きする、日本の地に根を張るお手伝いを今後やっていきたいなって。それはアナウンスだけ云々じゃなく、どういう形になるかは分かりませんが。海外に行けば、一般の生活にモータースポーツが溶け込んでいます。ル・マン24時間レース、インディ500……。生活の中にレースがある人たちから比べると、日本はまだまだ。いくらエコだ、何だと変わっていったとしても、使っているものがバイオ燃料に変わっていったという変革があったとしても、モータースポーツっていうかクルマを使ったスポーツっていうのはイベントとして考えると長く続いていくものだと思うんですよね。続けていきたいなって思う。レースっていうものが、人々の会話の中で普通に出てくるものになれば幸せだなって思いますね。

 
 
 
 
 
 
 
 
自らレーシングカート活動もやっていた。07年エンジョイカーターが集まる「K-TAI」にも参戦。それらの経験が実況にも活きている。
 
 
 
 
 
 
08年のJAFモータースポーツの表彰式でも司会進行役を務める。今ではレース関係者にも馴染みの顔となった。
 
 
 
 
 
 
 
テレビ実況も仕事のひとつ。写真は日本ではあまり知られていないWTCC(ワールドツーリングカーチャンピオンシップ)の番組。右は解説の木下隆之氏。
 
 
 
       
 
 
 ピエール北川 (ぴえーる きたがわ)
 1970年6月2日生まれ 三重県出身

レーシングカート活動と同時にやっていたオフィシャルの仕事の中で出会った「レース実況」。94年から地方カートコースで本格的にスタート後、鈴鹿サーキット、ツインリンクもてぎといった日本を代表するサーキットからも声がかかる。観客席に呼びかける独自の参加型実況が人気で、今年鈴鹿開催に戻ったF1日本GPをはじめ、2輪の鈴鹿8耐、もてぎ開催のインディ・ジャパン等のビッグレース場内実況でも
お馴染み。
http://ameblo.jp/pk-racing
   
         
 
 
 
 
 

サーキットのドライバーというと輝いていて一見華やかだが
実際にはあの表舞台に立つまでに多くの苦労を重ねてきている。
井出有治もまた苦労多きドライバーのひとり。
まず4輪へのステップアップの段階でつまづき、
一時はまったくレースができず、
プロレーサー・星野一義氏のカバン持ちをしたことも……
そんな彼に、今につながる波乱万丈な日々を振り返ってもらう。

F1ブームの中で。

 小さい頃から乗り物が好きだったんです。自転車を含めて自分で操るっていう行為がすごく楽しくて、車に関しては父が車好きだったり、レースはうちの兄貴が雑誌をたまに買ってきてそれを見ていたり、そういうの全部を含めてレースを始める“きっかけ”になりましたね。ポケバイにも興味を持ってやりたいなって思いましたが、バイクとかレースっていうのに対して母が反対してやれませんでした。
 実際にレーシングカートを始めることになったのは15歳の時。実家が埼玉の浦和なんですけど、その近所にカートショップがありお店をのぞいたんです。バイクじゃないんだからいいでしょみたいな感じで母を説得して、自分でもバイトをしながらスタートさせました。
 最初は埼玉や茨城のローカルレースに出てたんですけど、当時はF1ブームでエントリー台数がとても多かった。地方選手権に出た時なんか1クラス、130台ぐらいエントリーがあって半分以上が予選落ちとか。それぐらい当時のカートレースはレベルが高かったんですよ。

「このまま終われない」。

 カートをやっていた頃はレーシングドライバーになりたいっていうよりも、ただ乗ってて楽しいっていう気持ちが強かった。もちろん、なりたいっていう憧れはあったけど、具体的に将来像まで考えられてはいなかったですね。今のようにカートと4輪っていうつながりもなく、どうやって上にステップアップしたらいいのかがまったく分かりませんでしたし。(鈴木)亜久里さんや本山(哲)さんも僕と同じカートチーム出身で、スタッフの人たちと仲がいいというのは聞いていましたが、当時の僕にとってはかけ離れた人たちでしたから。カート時代はとにかくガムシャラにやっていました。
 転機というかステップアップしようってことになったのが、最終的に全日本選手権を含めて3年半ほどカートレースをやった後のこと。今思えば、ムチャでしたね(笑)。いきなりF3ですから。たまたま知り合いにF3車両を持っている人やレース好きの人がいて、その人たちの協力で筑波サーキットをF3で走らせてもらった。そしたら結構いいタイムで、「レースに出てもいいんじゃないの?」っていうノリで、本当に無謀な流れでステップアップした感じですかね。当時、ミドルフォーミュラにはフォーミュラトヨタというカテゴリーがあり、そこで経験を積んでF3に上がるというのが普通で、いきなりF3に乗る人はほとんどいなかった。今、そういうことしようとする若者がいたら、実際に自分でやった僕ですら止めますよ。そんなムチャはよせって(笑)。

 決して計画的ではなかったから、エントリーして出たけどステップアップするためにどういうふうにレースしてどういう結果を残してっていうのをきちんと考えてなかったですね。今は分かるけど当時は何も分からず、テストしないで年間数レース出て……無駄とは言わないけど、後々に苦労しました。僕の場合は数戦出て資金もなくなって、その先の道が完全に見えなくなってしまったので。
 で、どうしようかって時に星野一義さんを紹介してもらって、星野さんのカバン持ちを2年ぐらいやらせてもらうことになった。星野さんも4輪上がってすぐの時、クニさん(高橋国光)とか先輩が走っているのをコースサイドでフェンスにへばりついて、音を聞きながらアクセルワークを勉強したりという下積みの経験を持ってて、「お前もそういうことやらないと一流になれないからやれ。カバン持ちやれば交通費、宿代も出してやるから、とにかくサーキットに来い」って言ってくれて。朝サーキットに着いたらピット前の掃き掃除から始まって、ヘルメット拭いたり着替えを干したり。走行中はピットにいなくていい、お前はコースサイドで勉強してろって言われて、コースサイドでずっと勉強していました。
 そんな中、結果を残してないのに松本恵二さんや5ZIGENの木下正治社長に応援してもらって、再びF3に復帰する機会を与えてもらいスポット参戦もしました。ただやっぱり、しっかりとシーズンに集中できる環境や体制が整ってなくて、次いつ走れるのかも分からない中途半端な状態でした。カバン持ち時代、丸1年まったくレースできない時期があって、このまま終わるのかなって思ったりもしました。
 ある日、鈴鹿サーキットで開催されたフォーミュラ・ニッポンとF3のレースについて行ってコースサイドで観ていた時、自分がそのグリッドに並んでいないことがすごく悔しくて……ひとりで泣いてました。自分もあそこのグリッドに並んでレースをやってやると、強く思ったのを今でも覚えています。(以下次号)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
03年からフォーミュラ・ニッポンに参戦。04〜05年はチャンピオン争いに加わり国内トップレベルの実力を証明した。
 
 
 
 
 
 
GT500には00年にスポット参戦。フランスから帰国後、本格的にGT500を走り、F1参戦前後で中断はあったものの、昨年からTEAM KUNIMITSUのRAYBRIG NSXを走らせる。
 
 
 
 

 
 
 
 
       
 
 
 井出 有治 (いで ゆうじ)
 1975年1月21日生まれ 埼玉県出身

90〜93年という短いカート活動後に全日本F3選手権に挑戦。99年にフォーミュラドリーム初年度チャンピオン獲得後に再び全日本F3選手権、全日本GT選手権へステップアップを果たす。02年フランスF3参戦後は国内に戻りフォーミュラ・ニッポン、GT500を戦う。06年にはスーパーアグリF1チームからF1参戦も果たした。
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