後がない、最後のワンチャンスで国内トップカテゴリーまで這い上がった井出有治。
世界最高峰F1への扉が開いた時も、まったく迷うことなく飛び込んでいった。
高いところまで登りつめたと思ったら急転直下、振り出しに戻ったり……
「これだけバタバタしたレース人生を送っている人ってなかなかいない(笑)」
井出はそう言って、これまでの波乱万丈な日々を振り返ってくれた。

GTの契約金でシートを買う。

 星野(一義)さんのカバン持ちを2年間やって、もう一度出直すチャンスがめぐってきたのが99年でした。フォーミュラドリームというF3の下のミドルフォーミュラシリーズが始まって、参戦させてもらえることになったんです。当時24歳、決して若くないからダメだったらレーサーを諦めて普通の仕事をしろと(鈴木)亜久里さんにも言われ、自分でも腹をくくっていました。とにかく危機感が強かったから初代チャンピオンになれて、何とか次の扉を開くことができました。
 00年には全日本F3選手権に戻ってチャンピオン争いをして、01年も同選手権を戦いました。02年にはフランスF3参戦の話をもらい、フランスで1年間過ごしました。そのフランスF3では結果として1勝はしたけど、自分としてはまともな成績を残せないまま日本に戻ることになり、もう翌年はシートがないかなって思ってたら星野さんのチームでGTを走るチャンスをもらえました。
 ただフォーミュラの話が一切なくて、仕方ないからGTの契約金を全部ぶっ込んでフォーミュラのシートを買いました。ほんと賞金を獲らないと足りません、ていうぐらいぶっ込んだから、成績を残さないと途中でシートがなくなるという状態で1年を戦いました。そのシーズンが終わった03年末、セパンのタイヤテストに来いって星野さんに呼ばれました。メインは本山(哲)さんがテストして、時間があまったらお前も乗っていいぞって言われて。で、残り30分ぐらい乗せてもらって本山さんのコンマ1秒か2秒落ちのタイムで、走行後に「合格だ」って星野さんに言われました。じつは僕のテストだったらしく、「来年うちでフォーミュラに乗れ」ってそこで話をもらえ、驚きましたね

すべてがゼロに戻ったl。

 国内トップチームでフォーミュラ・ニッポンを戦い、チャンピオン争いにも加わりました。チャンピオンは獲れなかったけど、自分の駆け出し時代を思えば、すごくいい環境で戦わせてもらっているなという充実感がありました。
 そんな安定した日々の中、人生最大の転機がめぐってきたのは06年。亜久里さんがチームを作ってF1に参戦するっていうのは以前から聞いていて、「乗せてください」と僕も言ってましたが、まさか本当にそんな日が来るとは思っていませんでした。
 ただ、不安もありました。資金的にもあの時のスーパーアグリF1チームは大変な時期で、明らかに準備不足で開幕を迎えていました。開幕のバーレーンまで飛行場の滑走路を往復10回ぐらい、雪が降るシルバーストーンで2〜3周転がしたぐらいで、そのまま開幕戦にマシンを持って行ったから。ただ慌てずに、チームの状況を考えて自分の仕事をきちんと今はやっていかなければいけない時期だなと思っていました。結果を残しにいくという時期になったら頑張ればいい。今はとにかくチームが成長するまで自分のドライバーとしての気持ちは抑えておこうって。
 走れば必ずトラブル、バックミラーもまったく見えない状態で開幕戦のバーレーンを終えて、僕は4レースほどF1を走った。マシンが未熟だったので、レースというよりロングランテスト。そんな状態だけどF1はF1だし、皆が乗りたくても乗れないシートだし、考え方によっちゃ幸せなんだって思ってた矢先、フランス人ドライバーを乗せたいがために上の方からチームに圧力がかかって、最終的に僕のライセンスが剥奪されて……。僕のF1は中途半端なところで、消化不良のまま終わってしまいました。
 帰国直後、GTへスポット参戦させてもらったんですけど、チャックを差し忘れて無線が不通になっているのに気付かず、黒旗を無視……もう一度日本で頑張ろうって思ってたけど、その事件で今まで積み上げてきたものが再びゼロになってしまった。
 そういうことになって、いろんな人に「F1へ行かなければよかったんじゃないの?」って言われたけど、後悔はぜんぜんしていないです。もともとレースを始めたのってお金儲けしたかったわけではなく、マシンを操るのが好きでもっと速いマシン、速いマシンって上を目指してきて、世界で一番速いマシンでレースができるチャンスが見えたから飛び込んだわけだし。国内にいれば数千万円の契約金がもらえて賞金がもらえてっていう生活もあったけど、自分が求めて頑張ってきたのはそこじゃなかった。今でもその選択は間違っていないと思っているし、今後同じ選択をしなければいけない時がきたとしても、全部を投げ捨ててでもまったく同じ道を選ぶと思います。夢と安定した生活があるとしたら、僕は夢を選ぶ。これから先もそれは変わりません。

 
 
 
 
 
 
 
06年の黒旗無視事件でGT界で信頼を失った井出はしばらくシートを得られなかった。08年高橋国光氏率いる「TEAM KUNIMITSUに拾われ」、RAYBRIG NSXを走らせた。09年も同チームで戦った。
 
 
 
 
 
 
 
F1参戦後の06〜08年はフォーミュラ・ニッポンに参戦。07〜08年は鈴木亜久里氏が代表を務めるARTAで走った。
 
 
 
       
 
 
 井出 有治 (いで ゆうじ)
 1975年1月21日生まれ 埼玉県出身

90〜93年という短いカート活動後に全日本F3選手権に挑戦。99年にフォーミュラドリーム初年度チャンピオン獲得後に再び全日本F3選手権、全日本GT選手権へステップアップを果たす。02年フランスF3参戦後は国内に戻りフォーミュラ・ニッポン、GT500を戦う。06年にはスーパーアグリF1チームからF1参戦も果たした。
http://www.yuji-ide.com/
   
         
 
 
 
 
 

コンマ1秒を競うレースの世界とは違うラリーの世界。
主催者から渡されるコマ図、
そしてGPSを頼りに自分の進むべき方向を見出して「ゴール」を目指す。
三橋が始めてパリダカに参戦したのは01年。
2輪部門のエントリーから始まったそのラリー人生は
最終的に彼が予想しなかった方向へと向かう。
現在につながっている彼が歩んできた「ルート」は、
いかにナビゲーションして見つけ出したのか?

なぜ始めたか分からない(笑)

 モータースポーツに興味がなかったけど、小さい頃にボーイスカウトをやっていて山遊びが好きな子だったんです。アウトドアで遊ぶことが多かったので、マウンテンバイクにも早くから手を出し乗り始めました。オートバイの免許を取ったのが16歳。なぜ取ったかいまだに分からないけど(笑)。
16歳で資格が取れるということに興味を持って、取れるなら取っておこうかみたいな。で、免許を取ればオートバイが欲しくなり、ホンダのXLRというオフロードバイクを買いました。普段の足やツーリングにしか使ってなかったんですけど、折りしもバイクブームが日本に来てオフロードレースの数も増えていきました。行きつけのショップに誘われて出場した草レースが、僕のモータースポーツへの第一歩でした。
 その初レースでは、とくにあまり成績を出してやろうとか気負ったりはしていませんでした。参加台数が1000台ぐらいいて「すげぇな」って思ったぐらいで。二人組で出場してクラス15位ぐらいだったのかな。その時はスキー場のゲレンデを使っていたコースでしたが、「今度は本当の山道でのレースがあるよ」って誘われたのが完走率の低いと言われる北海道のレース。そういう感じでレースに出るようになっていきました。
 バイクレースを始めた頃にパリダカが日本でドーンと盛り上がって、いろいろと情報が入ってくるようになり、完走率の低い北海道のレースで完走できたんだからパリダカも完走できるんじゃないのって何の根拠もない自信を持っていたのを覚えています(笑)。ただ、今思えば少年のたわごとでしかないですけど。実際に行動に移していませんし、オートバイのレースも趣味の延長線上でしかなかったので。27〜28歳までそんな感じで過ごしていましたね。

3年計画で始まったパリダカ。

 転機がやって来たのは29歳。ホンダの社員クラブがあるんですが、そこと仲良くなり面倒を見てもらっている中で、オートバイを「好きに使っていい」と言われたんです。最初は「えっ」て思いました。それはつまりレースに出ろってことなのかなって。当時は年に1〜2回しかレースに出ていない状況。でもオートバイが出た以上、こりゃ出なければと思って年間6戦ぐらい出ましたね。比較的エントリーが多い大きな大会に出たんですが、全部勝ってしまった。全部勝つと翌年はサポートでパーツを出してやるとか待遇がよくなっていくわけです。それで新型オートバイXRシリーズが出るタイミングあたりから、「パリダカに出た方がいいんじゃないの?」みたいな雰囲気が自分の周囲に漂い始めた。で、企画書を持って行ったらポンポンって話が決まったんです。
 最初に出たのが01年です。幸運だったのはパリダカ参戦を後押ししてくれたのが広報部で、まだ1回も出ていないのに3年計画にしようって最初から言われて、3年間参戦できることが最初のレースから決まっていたこと。今までプライベーターで出るとなるとメカニックなしとか、パーツ持たずに行く人が多かった。それじゃ話にならないので、僕はメカニックを連れて行くことを大前提として、パーツもできるだけたくさん持っていけるように手配しました。
 現地に行く前までは他にもラリーに出ていたから雰囲気も何となくこんなんだろうって思っていたんですけど、予想以上に大きな大会だったから完璧に会場の空気にのまれてしまいました。本当に空回り、ペースを上げたら崖から落ちるとか。完走はしましたが、オートバイのトラブルもたくさん出てしまいました。
 翌年の参戦まではトレーニングに明け暮れる毎日でした。モトクロスレースに出て技術的、身体的なレベルを上げたり。ただ難しいのは、パリダカと同じシチュエーションが日本にないこと。砂漠、岩場、沼地といった場所もそうですし、170〜180キロのスピードを出してギャップを超える練習もできません。ヨーロッパのライダーたちは、パリダカ以外の他のラリーに年5〜6戦出て、場数を踏んだだけレベルアップしてきます。サポート態勢もいい。そういう部分でのつらさっていうのはありましたが。でも、2年目の慣れとトレーニングの甲斐があって、翌年の2回目の参戦はSSでもいいところを走れて、最終的にプライベーターのトップ賞。そしたらホンダから「次は全面バックアップでいこう」って話になり、翌年はかなりいい体制で出させてもらって……。
 3年計画という短い期間の中にも結構浮き沈みがあったなと当時は思っていましたが、この後にもっと大きな転機が待っていました。

 
 
 
 
 
 
 
 
パリダカのルートは森林地帯や沼地、乾燥地帯などさまざま。砂丘で視界がせまくなる砂漠のステージは、スピードを落とすとタイヤが砂に埋まってしまうのでとくに慎重な運転が必要だ。
 
 
 
 
 
 
02年プライベーター最上位となり、03年は万全の体制で臨むことに。ただし、「3年計画」終了後の将来については未定だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 三橋 淳 (みつはし じゅん)
 1970年7月2日生まれ 東京都出身

01〜03年に2輪部門でパリダカに参戦。その活躍が認められ、04年からニッサンの育成プログラムを受けて4輪部門へ転向、プロダクションクラスで参戦を果たす。06年にはスーパープロダクションクラスでステップアップした。07年よりトヨタオートボディと契約して、プロダクションクラスでクラス優勝。08年は大会中止となったが、08年以降も継続して参戦し、先日の2010年大会では2度目のプロダクションクラス優勝を飾った。
http://www.jun38c.com/
   
         
 
 
 
 
 

2輪部門でスタートした三橋のダカールラリー挑戦だが、
04年に大きな転機を迎えることになった。
ニッサンの育成プロジェクトのメンバーに加えられ
4輪部門へ転向することになったのだ。
新しい環境の中にすぐ順応する三橋とは対照的に
思うように練習できない日々の中で積もるストレス
それでも彼は、その時々の最高結果を導いてきた。

練習できないストレス。

 オートバイでの3年計画後の予定はまったく白紙でした。ホンダには何とか続けたいとお願いしつつ、KTMにも行きましたが、不況の影響もあり前向きな話はありませんでした。そんな時、ニッサンから声を掛けてもらいテストを受け、4輪育成ドライバーの枠に入れてもらえることになったんです。
 2輪から4輪への転向において抵抗はなかったです。結構、新しいもの好きだったりするので(笑)。オートバイもそうですけど、車も好きですから。ただ4輪の競技に関しての経験がまったくゼロ。でも、それが逆によかったのかなって思います。最初からできなくて当たり前だからって開き直った気持ちにもなれましたしね。
 もちろん苦労はしました。何より練習ができなかったので。育成プロジェクトでフランス行きが決まり住居を構えたんですけど、まず車に乗れない苦しみがありました。練習してレースに挑むっていうのが僕の理想なのですが、予算の関係でダカールラリーに向けてレース2〜3戦で練習して準備を整えていくという計画で、通常の練習ができなかったんです。レースを重ねれば当然、後半は経験という面で結果は良くなっていく。でも、練習をちゃんとやって臨んでいれば入賞できた、優勝争いできたというタラレバも出てくるわけで、自分の中ですごい葛藤がありましたね。自分で言うのはどうかと思いますが、僕は吸収力の高い方だと思っています。速い人たちの中にさえいれば、いろいろ盗める能力はあるなって。逆に言うと、そういう場所にいないと盗めない……。06年にニッサンが撤退して僕はトヨタ車体に移籍しましたが、トヨタ車体は市販車部門での参戦にこだわっているので、それを理解して契約したのですが、総合優勝を争うチームのように開発やテストを繰り返しながら、ドライバーのスキルも高めていけるといったような、自分の理想の環境ではないわけです。そういった環境を手に入れるには、トップのファクトリーチームに入る以外改善は難しい問題でしょうね。

ナビのトレーニング。

 ドライバー自身の成長も大事ですが、ラリーでもうひとつ大事なことがあります。助手席に座るナビゲーター(ナビ)の存在です。やはり有能で信頼できるナビが横にいて欲しいのがドライバーの心情。ナビの仕事は、「500メートル先の分岐を左」と道を示すだけでなく、危険な場所で「溝がある(危険地帯は3段階に分けて表現)からブレーキをかけろ」と注意を促さないといけない。僕が見えていればいいですけど、長い登り坂だったりして先が見えない場合、見えた時に対応しても遅いわけですよ。だから07年に経験のない新人のナビを育成し、ダカールラリーに参戦するというプロジェクトに取り組んだ時は、ナビは地図を読ませる役にして、僕がナビの補足をやりながら走りました。オートバイではひとりでナビしながら走るのが当たり前だから、そういう器用なこともできたんでしょうけどね。
 ただ、ずっとそういうことも続けられないので、ナビに能力を伸ばす訓練をしてもらいました。群馬県や埼玉県のあぜ道しかない何もないところにポツンと置いて、携帯電話も財布も取り上げて、目的の住所だけ伝えてここに来いっていう。まず自分がどこにいるか分からない。最初に自分の位置を確認する行為から始まり、自分の居場所が分かったら次に必要なのは目的地。どっちの方角にあるのか?それが分かったら、後はどうやってそこまで行くか? そういう訓練なら日本でもできるし、基本的にラリー中の考え方と同じですからね。

積み重ねる大切さ。

 市販車部門ではおかげさまで07年、そして今年も優勝できましたが、僕がこのクラスで一番大事だと思うのが自制心です。まず車が持たない。速く走ろうと思えばもっと速く走れます。そこを抑えて走る。いかに自制心を保てるかが勝負なんです。昨年、WRCドライバーの新井敏弘さんと一緒に練習する機会があって、彼のいきなりトップギヤ全開の走りはとても参考になりました。まったく競技が違いますが、ずっと自分の弱点はラリー序盤のペースが上がらないことだと思っていたので。いろいろアドバイスを受け最初から全開でいこうと練習を開始したら、いきなりひっくり返った……。確かに最初から速いペースを持続していくのは大事だけど、自分はまだそういう訓練をしていない。ゆっくり立ち上がっていく方法で戦おうって思って臨んだのが、今年のダカールだったんです。今の自分のレベルに合ったペースっていうのがあって、それを焦らずに守ろうかなって。結果、今年も部門優勝が実現しました。
 来年のダカールに関してまだ何も決まっていませんが、今年の2回目の部門優勝という結果で今後可能性が生まれるかは分かりません。振り返れば置かれた環境がいろいろ変わってきましたが、こういう結果を積み重ねていくことで将来が拓けると信じて今後も挑戦していきたいと思っています。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダカールラリーは砂漠をはじめ、日本にない環境の中を長距離走行する。練習が充分にできないハンデの中、三橋は市販車部門で結果を積み上げ続けている。
 
 
 
 
 
 
09年ダカールラリーフィニッシュ後。左にいるのがナビゲーターで、競技中にドライバーを補佐するのが役目だ。
 
 
 
 

 
 
 
 
       
 
 
 三橋 淳 (みつはし じゅん)
 1970年7月2日生まれ 東京都出身

01〜03年に2輪部門でパリダカに参戦。その活躍が認められ、04年からニッサンの育成プログラムを受けて4輪部門へ転向、市販車部門で参戦を果たす。06年には改造車部門にでステップアップした。07年よりトヨタ車体と契約して、市販車部門で部門優勝。08年は大会中止となったが、08年以降も継続して参戦し、先日の2010年大会では2度目の市販車部門優勝を飾った。
http://www.jun38c.com/
   
         
 
 
         
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