将来のことに関して、あきらめてしまうのは簡単で生産性のないことだ。
たとえ1%でも可能性があるなら「まずはやってみる」が青木拓磨流。
98年、いわば全盛期の青木を襲った事故――
脊髄を損傷して車椅子生活を余儀なくされた彼は
絶望と向き合いながらも前に進むことを決意。
五体満足の人には想像でいない苦闘を重ねて
今年、スーパー耐久レースという舞台で念願の国内レース復帰を実現した。

夢はル・マン参戦。

 今年、スーパー耐久シリーズにデビューすることができました。参戦はSTクラス4で車両はインテグラ。エンケイさんにもサポートを受け、夢への一歩を踏み出せました。チームメイトは土屋武士選手。彼とは長い付き合いで、今回のS耐デビューをはじめ、そこまでの準備においてもいろいろと協力してもらってきました。彼と一緒に本気で来年はスーパーGT参戦、再来年はニュル24時間レース、そして3年後にはル・マン24時間レースに一緒に参戦しようと計画を立てています。傍から見れば無謀な挑戦ですが、絶対に実現させてみせます。
 なぜ無謀と思われるか?それは僕が車椅子ドライバーだからでしょう。世界選手権ロードレースの500ccクラスを戦っていた1998年、テスト中に転倒して脊髄損傷の負傷をして、それ以降は車椅子生活を余儀なくされました。
 今年のS耐に関しては「グイドシンプレックス」という機構を使ってマシンをドライブしています。これは元F1ドライバーの故クレイ・レガッツォーニがプロデュースした機構で、ステアリング上のボタンを使ってクラッチを操作、ステアリング背面にあるリングによってアクセルコントロール、ステアリングボスの横から生えるレバーを使ってブレーキを操作するもの。要は両手だけで車の運転ができる機構です。GT‐Rだったりポルシェにも付けられるシステムで、ちょっと強いトリプルクラッチのような操作ができます。ただ、そうは言っても市販車向けの製品なので、もっとレースをしていくことによって改良して、それをお客さんにフィードバックして、僕のように車椅子になってしまった人がハンドドライブでスポーツカーを使ってドリフトしたり、サーキットを走ったりできるようにしていかなければと思っています。

周りにいてくれた皆。

 スーパー耐久のデビュー戦はトラブルもありましたが、何とか9位で完走できました。結果よりもまず、国内レースを走れたということの感激が強かったですね。車椅子生活になって、2輪は難しくても4輪ならと、ずっとライセンス申請をしてきたので。そのための下積みも長かったんです。HDX(ハンド・ドライブ・クロス)という手動カートでのレースを05年以降続けて実績を残して、国内Aライセンスを取得しましたが、僕の場合は「競技会限定」という限定付きライセンスしか下りなかったんです。競技会限定ということは、皆で一斉にヨ〜イ、ドンってするレースに出られないってこと。ジムカーナやラリーといったスピード競技しか出られないんです。それが悔しくて……。だから自分はレースに出ても危険じゃない、ちゃんと走れるんだっていうのをまずは証明する必要がありました。
 昨年はヴィッツのナンバー付きレースでひたすら結果を残そうと土屋選手と一緒に参戦してきました。ナンバー付きレースは限定付きライセンスでも参戦できるんです。それでようやく、今年の申請で僕の国内Aライセンスから「限定」が外れ、スーパー耐久シリーズ参戦が実現したんです。
 今回のレース参戦に向けて後押しをしてくれた人もたくさんいます。まわりにいてくれた土屋選手、高木虎之介選手、脇阪寿一選手、本山哲選手もそうだし、ケガをしてからも同じ対応をしてくれて、彼らは「お前はかわいそうだ」という目では見なかった。「やっていこうぜ」という温かい目。可能性として、まだコイツはやるんじゃないかと期待してくれていたところもあった。復帰を願ってくれたファンもそうだし、まわりの人の助けもあったし、JAFの中でも動いてくれる人もいた。だからこそ実現できたことですからね。ホント、たくさんの人に「ありがとう」って気持ちでいっぱいです。

当てにしていた参戦車両が使用できないハプニングを乗り越え、そこから怒涛の準備でS耐開幕戦デビューを果たした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「グイドシンプレックス」という機構を装着した車両。通常は両足で行うペダル操作を両手でできる。ただ、両手両足を使う操作を両手のみで行うため、走行中の青木選手はかなり忙しい。
 
 
 
 
国内Aライセンス取得に向けて、昨年はナンバー付きのヴィッツレースに参戦して実績を残した。その積み重ねが夢への一歩を実現した。
 
       
 
 
 青木 拓磨 (あおきたくま)
 1974年2月24日生まれ、群馬県出身

小学校3年生からポケバイを始め、95年にホンダワークスHRCと契約、97年から世界選手権ロードレース500ccクラスを戦った。同年は表彰台2位1回、3位2回でシリーズ5位を獲得した。しかし、98年テスト中の事故により脊髄損傷。長い努力の日々を重ねて、今年限定なしの国内A級ライセンスを取得し、14年ぶりに国内レース復帰を果たした。
http://www.takuma-gp.com/
   
         
 
 
 
 
 

98年2輪レース中の事故後、車椅子生活を余儀なくされた青木拓磨だが、
意外にもバイクに乗れない絶望感を味わったのは「3日間ぐらい」だと言う。
折れない心で、彼はそこから13年かけて国内Aライセンスを獲得して
今年、国内レース復帰を果たした。
「諦めてしまうのは簡単」と言い続け突き進んできた彼のレース人生には、
多くのメッセージが詰まっている。

プロの仲間入り。

 僕のレース人生は1台のポケバイから始まりました。兄弟3人いるんですけど、小学校3年の時に父がポケバイを買って来て、それを3人で乗っていたんです。特にレーサーになろうと思って乗っていたわけではなく、ただ楽しくて駐車場で乗り回していただけでした。
 レースで初めてお金をもらったのは17歳の頃でしたが、まだ高校生だったし、プロになろうとはすぐに思いませんでした。本気でプロになろうと思ったのは18〜19歳の頃で、プロの仲間入りしたと思えたのはホンダと契約した21歳の時。レースって仕事になるんだ、これって職業なのかもしれない、と。それまでは世界GPって雲の上の存在だったんです。ケニー・ロバーツやワイン・ガードナーすごいな、ケビン・シュワンツにはすごく憧れを抱いていた。自分がホンダワークスに入ってシュワンツと同じレースに出て、今でも忘れられないですけど95年の世界GPの時に初参戦で3位に入った時、あのシュワンツが僕のところに来て握手を求めてきた。すごくうれしくて、同時に自分はプロの世界にいるんだと確信しましたね。

時計は止まっていない。

 振り返ると、2輪人生において挫折はありませんでした。負けたら次だって思っていたから。それは今でも同じで、レース人生において挫折感はないです。あったとしたら98年にケガをした時ぐらい。でも挫折って、たぶん諦めることなんですよね。何とかしてそれを乗り越えようとするなら、それは挫折じゃない。車椅子生活になり不自由にはなったけど、僕は不幸にはなったわけじゃないので。2輪レースにしても引退宣言はしていません。当時はハード面で乗り続けることはできませんでしたが、今後はハード面が改善されてまた2輪レースに復帰する日が来るかもしれません。現に日常では車に乗っているし、クルマのレースにも出ているし、自分のレース人生という時計が止まったわけではないんです。
 よく願いを叶えたいなら、強く思い続けろと言いますよね。思い続けなければそれは実現できないと思いますが、思い続けるだけでもダメ。ずっと思い続ける「折れない心」ももちろん必要だし、それに対してのアクションを起こさないと何も変わらないと僕は思うんです。信じれば叶うんじゃなく、アクションを起こさないと叶うものも叶わない。諦めないプラス、アクション。それが大切です。僕は「諦める理由を探すぐらいなら続ける理由を探す」という言葉が好きで、それは自分の中のポリシーになっています。ケガをしてからの人生ではそういう考えで生きてきたし、これからもそれは変わらないと思います。

小さな波を起こすために。

 日常生活で安定を求めている人ってたくさんいると思うんですよ。それはひとつの選択肢だからありだと思うけど、僕は絶対に選ばない。それは僕の生き方じゃないですから。そういう意味でも、今は僕の生き方全体をたくさんの人に見て欲しいっていう気持ちが強いですね。僕の4輪レース挑戦や活動すべてを通して、日本の社会を変えてやるぐらいの気持ちで僕は取り組んでいます。だからレースだけの世界で終わらせたくないとも思っています。僕の生き方を見て人が幸せになったり、本当にやりたいことが見つかったり、単純に救われる人がいたり、あるいは拓磨はレースだけど自分は違う道を通って生きていくと思ってくれるだけでもいい。拓磨がやっているなら自分にもできる、拓磨には負けられない、そういう感情を障害者だけじゃなく多くの人に持って欲しいんです。負けたくない、だからアクションを起こす。それはレースだけじゃなく日常生活でも大切な感情ですからね。
 国内レースに復帰するまで僕は13年かかりましたが、僕という「前例」によってこれからはいろんな面で変わってくると思います。諦めずアクションを起こし続けること。時間はかかるかもしれないけど、それで小さな波は起こせる。その波で社会を変えるっていうと大袈裟かもしれませんが、たとえ小さくても誰かが波を起こさないと何も変わらないのが現状だから、僕は周囲から無謀だと言われる夢に向かってこれからも挑戦し続けていきたいと
思っています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拓磨の場合、レーサーに強く憧れてはい上がってきたというより、夢中で走っているうちにプロの仲間入りしていたという表現の方が正しい。23歳まで全力疾走だった。
 
 
 
 
 
 
今年は親友であり、4輪プロレーサーでもある土屋武士とともに、スーパー耐久シリーズのクラス4をインテグラで戦っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 青木 拓磨 (あおきたくま)
 1974年2月24日生まれ、群馬県出身

小学校3年生からポケバイを始め、95年にホンダワークスHRCと契約、97年から世界選手権ロードレース500ccクラスを戦った。同年は表彰台2位1回、3位2回でシリーズ5位を獲得した。しかし、98年テスト中の事故により脊髄損傷。長い努力の日々を重ねて、今年限定なしの国内A級ライセンスを取得し、
14年ぶりに国内レース復帰を果たした。
http://www.takuma-gp.com/
   
         
 
 
 
 
 

他のスポーツと比べると、モータースポーツは練習するだけでも莫大な資金が必要となる。
才能があっても、興味を持ってやりたくても、
時にその壁は無情なまでの障害となる――
だが、石浦宏明選手は自らの才能でその壁を破り、
成功への道をひたすら駆け上がっていった。
今年のスーパーGT第3戦で勝利を奪い、
将来のレース界を背負う石浦選手の原点と
今に至るまでの波乱万丈なレース人生を紹介する。

「レーサーになりなさい」。

 小さい頃からレース雑誌を読んでいて、記事の中にレーシングカートのことが載っていたんです。小学生の時、それを親に見せて乗りたいって言ったら「中学受験に合格すれば」と返され、それを信じて勉強して私立中学に合格したんですけど、実際にカートの値段を調べてみると、その当時で始めるのに70万円かかるっていうのが分かって「まだ早い」ということになったんです。で、エンジン駆動ラジコンを渡されて、僕は何となく自分の欲求をごまかしていました。
 中学3年の時、父親の会社の方々がレンタルカートコースでカート大会をやったんですよ。そこで「乗ってみるか」と言われて、一緒に付いて行きいざ乗ってみたら、すごい衝撃を受けました。乗れば乗るほど楽しくなり、大会ではファステストラップを出したご褒美にレーシングシューズをもらい、その日は履いて寝ましたね(笑)。カート時代のシューズはその一足で、穴があいてボロボロになっても使っていました。
 その後もカートをすぐには始められず、高校2年で本格的に開始。当時、1日3万円でカートをレンタルできるシステムがあって、それを利用して4〜5回練習で乗ったんです。で、シルクロードというショップのカートに乗った時、コースレコードのコンマ5秒落ちまでタイムを出せた。そしたらショップの方に「来月のレースに出な」と言われ、突然99年1月の新東京サーキットの開幕戦に出ることになったんです。レンタルシステムのカートでレース参戦する人は珍しく、しかもコースレコードを上回ってポールポジションを獲って優勝。レース後、新東京サーキットの社長に「君、レーサーになりなさい」って言われた時はびっくりしました。

FTRSでの誤算。

  その後、ようやくカートを購入してもらえたので本格的に活動を開始したかったんですが、その年が受験の年で「ちゃんとした大学に合格しなさい」と親に説得され1年間休むことにしました。
 大学合格と同時にショップに行き、保管してあった自分のカートと再会。当時、僕の面倒を見てくれていたのがF・アロンソ、R・アンティヌッチの面倒を見ていた人で、いまだに褒められたことがないぐらい恐い師匠でした。大学1年はほぼ毎週カートに乗り、みっちり師匠に鍛えられました。で、翌年から――。僕はまだ入門クラスだったんですが、ショップの方に「3月にもてぎでFAがあるから出な」と言われたんですよ。師匠もそうしろ、と。キャブレターセットもできない状態で上級者のチューニングFAクラスに出ることになったんです。
 全日本選手権前の週だったので、前哨戦として全日本ドライバーもたくさん参戦していました。25台ぐらいの中、メカニックには「ビリでもいい」と言われたんですけど、ガムシャラに走ったら何と3位表彰台。それで00年はチューニングクラス中心に出ようとなったんですが、金銭的な負担が一気に跳ね上がってしまった。それでもカートショップでバイトしながら運送会社の夜中の仕分けをやってという生活を続け、01年はもてぎFAチャンピオンを獲れて全日本選手権への参加資格を得られたのですが、それには最低500万円かかる……。さすがに無理だなと思っていた時、雑誌の記事でフォーミュラへステップアップするためのオーディションがあることを知ったんです。
 02年、そのオーディションにトップ合格でき、FJで3回ほど練習して自信がついたので自分の中でそのスクールは卒業し、目標を夏のFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)にしぼりました。
 FTRSはスクール形式でフォーミュラのことを学べる他に、スクール自体がオーディションになっていて、優秀者はフォーミュラレースデビューのスカラシップを得られます。ただ、そこは全日本カート有力ドライバーが集まる世界。中嶋一貴もいたし、大嶋和也もいました。教室内で無名なのは僕だけ、みたいな。でも走ってみたらFJで練習していたのもあり好感触で、最終レースでは予選1番手は僕、一貴が2番手で、大嶋が3番手。決勝は一貴、僕、大嶋の順でゴール。現役FTドライバーの平手晃平や小林可夢偉も出ていたレースでその成績だったので、これは受かったなと確信を持ったんですが……。
 今年GTでコンビを組んでいる、当時15歳の大嶋ともそこで初めて仲良くなりました(石浦は当時21歳)。大嶋と電話番号を交換して合格したら教えてねと言っていて、1ヶ月後に彼から電話があり「連絡ありましたけど、石浦さん電話ないんですか?」とか言われ、自分が落ちたと知りました。すごいショックでした。今振り返っても人生の中で一番ショックな出来事――そこまで順調に来ていたものすべてがそこで崩れたような気がしましたね。
(以下次号)

 

 
今年のスーパーGT第3戦富士戦、GT500クラスで大嶋和也とともにぶっちぎりで勝利を挙げた。GT500では通算2勝目。右は大嶋でFTRS以来の付き合いだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
FJ1600で練習中。
FJは3回乗って卒業できるほど
カート→フォーミュラへの転向はスムーズだった。  
 
 
 
 

 
 
 
 
最近の子供たちと違い、石浦のカート開始時期はやや遅め。
だが、その内容は充実していたようだ。。
 
 
 
 
       
 
 
 石浦 宏明 (いしうらひろあき)
 1981年4月23日生まれ、東京都出身

99年カートレースデビュー、01年もてぎFAクラスチャンピオン獲得。03年に4輪へステップアップ、03〜05年はFTを戦った。06年にTDP契約ドライバーとなりF3へ。07年に名門トムスでF3を戦う一方、GT300で大嶋和也と組み王座獲得。08年よりFニッポン、GT500に上がり国内最高峰ドライバーの仲間入りを果たした。
http://ameblo.jp/ishiura/
   
         
 
 
         
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