参戦資金難に苦しむ石浦宏明選手が望みをかけて挑んだFTRSだが、
そこでも将来の道を開くスカラシップは得られなかった。
もう辞めるしかない……そんなどん底で手を差し伸べたのは
親とそれまで彼を支えてきたレース関係者。
「才能がある」本人以上にそう信じる人たちに石浦選手はサポートされ
ここぞというチャンスを拾っていく中で、突然の幸運は訪れた。
レース活動をする中で避けては通れない「参戦資金の壁」を
石浦選手は次々にぶち破り、トップドライバーに登りつめたのだった。

本当にこれが「最後」。

 FTRSに合格できなかった後は、1ヵ月ぐらい落ち込んでいました。年末に開催された鈴鹿でのフォーミュラドリーム(FD)体験走行会でも1位だったんですが、そこにスカラシップがあるわけでもなく家に帰ってまた落ち込んで……。そんな事情を知った親が、いきなりこう言ったんです。「お前FTRSでもFDでも1番だったんだよな。じゃあ、やってみるか?」って。僕は説得しても無理だなと思える金額なので諦めていたんですが、広告代理店に勤めている親は初めて僕がカートに乗った時のカート大会のメンバーたちにも協力してもらってスポンサー活動をしてくれた。そして03年、トリイレーシングからにフォーミュラトヨタ(FT)にデビューできたんです。
 FT初年度は、中嶋一貴、小林可夢偉といったメンバーと戦っていました。シーズン途中まで3人でタイトル争いをしていたんですが、僕はなかなか1勝を挙げられず、最後は自滅する形でふたりに離されてしまった。結果はシリーズ4位。僕としては全財産を注ぎ込んで臨んだような1年だったので、もうこれ以上は親にも頼れない、ああこれで終わりだなって覚悟していました。ところが、以前オーディションを受けたチームから誘いが来て、破格の参戦資金で1年間走らせてもらえることになったんです。ただ、その04年は何をやっても成績が出なくて、シーズン途中から左足ブレーキ習得に専念してシリーズは6位。今後どうするか04年オフは悩んで、本当にこれが最後と言い切って05年に服部尚貴さんのチームナオキでもう1年だけやらせて欲しいと親にお願いしたんです。

「レースを続けるべきだ」。

 服部さんが鈴鹿に行くというのを聞きつけて親と一緒に鈴鹿へ向かい、「チームに入れてください」とお願いしたら、服部さんは「じゃあオレが判断してやる」と言ってくれました。「今年1年でダメだとオレが判断したら、きっぱりレースを辞めさせる」。そう約束させられて、トリイレーシングからチームナオキの一員として05年を戦いました。
 その年はGC21というカテゴリーにも出ました。GC21はF3の練習にもなりますからね。両カテゴリー並行して参戦する相乗効果で、GC21は5戦5勝でチャンピオンになれ、FTのレースでは2勝できた。結果的にFTはチャンピオンになれなかったけど、服部さんも親も「続けるべきだ」と判断してくれました。とはいえスカラシップもなく、僕にできることはF3全チームに連絡をして「乗せてください」とお願いすることだけ。でも、「もうドライバーは決まっている」という返事しかもらえなかった……。
 12月、インギングというチームのF3テストで5周程乗せてもらうチャンスを2回もらって、F3でもやっていける手ごたえを僕はつかんでいました。出られれば結果も出せる。そう信じて、トリイレーシングで頭を下げてF3エンジンを貸り、山口県のインギングまでトラックで行ってF3シャシーを貸してくださいとお願いして何とかマシン一式をそろえることができ、2月の岡山のF3合同テストに参加できる準備が整いました。テスト前週、僕は大学に退学届けを出しにも行きました。

幸運の電話が鳴った。

 通常の合同テストはシリーズ参戦するドライバーしか走りません。そんな中、急に僕がやって来てトップタイムを連発したので、他のチームは驚いていました。ずっとトップタイムでしたが、トムスやホンダ勢がタイムを上げて最終的に4位。でも、僕はクラッチが壊れていて滑りながらの4位だったんですよ。それがなければ、ぶっちぎりの1位だったと後で分かった時は満足でした。
「あんな状態で実質トップなんだからシリーズに出ろ」とその結果を受けてチームには言われたんですが、資金的には厳しくて自分ではどうしようもありませんでした。でも、突然電話が来たんです。2月末に関谷正徳監督から。「オーディションをする。それに合格したらTDPに入れる」と。
 そのオーディションに合格してナウ・モータースポーツからF3に出られることになり、最終戦での勝利が評価されて翌年トムスに移籍することができました。トムスは最強チームなので結果もともない、FニッポンとGT500へもステップアップ。そこからは順調だったと思いますが、自分で振り返ってもトムスに入るまでの苦労は相当だったなと思えます。ただ、自分ひとりの力だけではなく、苦労している時に自分をサポートしてくれる人たちに恵まれていたのも事実。そういう人たちへの恩返しのためにも、さらに高いところをこれから目指していきたいです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今年勝利を挙げたスーパーGTだけでなく、石浦選手は国内最高峰フォーミュラレース、Fニッポンでもトヨタのエース的な存在。
まだ初優勝はないが、その日がぐんぐん近づく気配をレースごとに感じさせている。 
 
 
 
 
 
 
 
 
国内最高峰Fニッポンでは、ものすごい握力と腕力が必要。レース後には手にマメができ痛々しく弾けている時も……。
 
 
 
 
 
       
 
 
 石浦 宏明 (いしうらひろあき)
 1981年4月23日生まれ、東京都出身

99年カートレースデビュー、01年もてぎFAクラスチャンピオン獲得。03年に4輪へステップアップ、03〜05年はFTを戦った。06年にTDP契約ドライバーとなりF3へ。07年に名門トムスでF3を戦う一方、GT300で大嶋和也と組み王座獲得。08年よりFニッポン、GT500に上がり国内最高峰ドライバーの仲間入りを果たした。
http://ameblo.jp/ishiura/
   
         
 
 
 
 
 

追いかけていた頂点に到達した次の瞬間に人は何を思うか・・・。
「これですべて終わった」あるいは「これ以上の頂点はないか?」
今季のスーパーGTで大活躍中の伊藤大輔選手は明らかに後者だ。
4輪ステップアップ直後から苦労の連続で
ようやく07年に最高峰の頂に立ったにもかかわらず、08年にすべてをリセット。
「まだ自分は成長できる」。そう信じて突き進んできた伊藤選手の
モータースポーツ人生を今回はひも解き紹介する。

すべての始まりは引越し。

 生まれは東京なんですが、父親の仕事の関係と自分が喘息だったというのもあり、父親の実家の三重県に4歳になる前に引っ越したんです。鈴鹿サーキットの近くに移り住んだ、というのが僕の人生にとっては大きなポイントだったように思います。もし東京にずっと住んでいたら、レーサーにはなっていなかったかもしれません。
 中学2年の時にクラスメイトがF1好きで、その影響で深夜のF1中継を見るようになりレースに興味を持ち始めました。その頃は89〜90年のセナ・プロ対決のアツい時代。ただ、興味は持ちつつもサーキットに行ったことがなくて、たまたま鈴鹿サーキットの遊園地に遊びに行った時にレーシングカーが走っているのを見て、これに乗りたいなと思ったのがレーサーになる大きなきっかけでしたね。
 高校に入ってからはレースを始めるきっかけとしてカートがあるというのを知り、やりたいなと思いガソリンスタンドでアルバイトを始めました。高校1年の終わりにやっと中古カートを買ったのが僕の第一歩。当時、親父が乗っていたバンに無理やり載せてカートコースに連れて行ってもらいました。親父も大変だったと思います。毎週末が僕のカートでつぶしてしまっていたので。
 なんだかんだカートを2年半ぐらい続けましたが、その先の将来には悩みました。ベストは高校卒業してすぐにレーサーになれればいいんですけど、そんなに簡単な世界でもないですし、卒業と同時に一応就職も決まった。とりあえずはそこで働きつつカートを続けていく中で、どうやって4輪の世界に行ったらいいかを模索し始めました。そんな時に、鈴鹿レーシングスクール(SRS)にフォーミュラができるらしいというウワサを聞き、そこしかないと狙いを定めたんです。それが95年の19歳の時。噂では入校金は300万円ぐらいと聞いてたけど、説明会で700万円って言われた瞬間は親父と目を見合わせて、こりゃ大変な世界だなって一瞬諦めかける金額ではあったけど、自分としては4輪の世界に進む上できっちり腕を磨きたい気持ちがあって、親父を何とか説得して自分の貯金100万円と親父の貯金200万円と親戚から借りた400万円で入校にこぎ着けました。

「レーサーになりたいんです」。

 スクールは大概、月曜と火曜にあるので、僕は会社を休む必要がありました。就職したのは「サンユー技研工業」っていう金型屋なんですけど、入校を決める前に社長さんを呼んで、「じつは僕には夢があります。レーサーになりたいんです。そのためにはそのスクールに入ることが一番近道だと思うので、会社を休ませてください」とお願いをしました。社長も「分かった。頑張ってこい」と応援してくれて、会社に行きながらスクールに通うことを許してくれたんです。
 スクールの講師陣には服部尚貴さんや高木虎之介さんがいて、そういう人たちに教われる環境がよかったし、楽しかったですね。だんだんタイムが講師陣に近づいていくとやる気も増したし。ただスカラシップという制度がある中で、僕はそれからもれてしまった。自分の中ではまったく歯が立たない状況だったら諦めようと思っていたんですが、その逆で、すごく手ごたえを感じてたので諦められませんでした。何とか続けるためにはどうしたらいいのかなと相談に乗ってくれたのがスキルスピードの桃田さんでした。SRS−Fのスクールカーのメンテナンスをしていたというのもあり、身近な存在だったんです。当時、スキルスピードはフォーミュラトヨタ(FT)での強豪チーム。そんなチームの桃田さんが「レース続けたいならうちでやってみないか」という声を掛けてくれた。で、中古のFTマシンとアップデートキットをそろえてスキルスピードに組んでもらい、FTのレースに出られる準備を整えました。
 もともとスクールの時代から借金を抱えているので参戦資金はカツカツ。当然、その年も親父に借金してもらい、自分も働いてそれをつぎ込んでという生活だったんですが、どうしても1年間戦う資金の目途が立ちませんでした。でも、FTは賞金がいいんです。優勝して、その賞金で「次のレースも出られるな」みたいなことが続き、結果的に2勝してシリーズ3位でフル参戦を果たせました。こうなると次のステップとしてF3を考えずにはいられませんが……F3もべらぼうに高い。どうしたものかなって思っていたら、ホンダモータースポーツ部の人が「もしF3に出るならエンジンを出すよ」と言ってくれ、さらにはスキルスピードの桃田さんも僕に可能性を感じてF3のシャシーを購入してくれ、4輪2年目にF3までステップアップすることができました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
優勝こそないが、今季はここまでの5ラウンドですべてでポイントを獲得することに成功し、
GT500クラスでランキング首位をキープ。名門チーム ルマンの復活に向けて好調な前半戦と言える。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 伊藤 大輔 (いとうだいすけ)
 1975年11月5日生まれ、東京都出身

95年にSRS-Fの第一期生で入校、96年にスキルスピードからフォーミュラトヨタにデビュー。97年にF3に上がり、98〜99年はマカオグランプリにも参戦して99年に3位表彰台を獲得。00年から全日本GT選手権(現スーパーGT)に参戦開始。チームを移籍する中でホンダ系チームのエースへと成長し、07年にARTA NSXを駆りチャンピオンに輝いた。08年はホンダからトヨタのチーム ルマンへ電撃移籍。今季も同チームからGT500を戦い、現在ランキング首位を堅守している。
http://www.daisuke-ito.com/
   
         
 
 
 
 
 

鈴鹿レーシングスクールに入校する時から資金的なハードルが高く
余裕がなかった伊藤大輔選手だったが、周囲の協力のもとF3参戦に漕ぎ着けた。
そこから先は決断を迫られることばかり
資金的な面はもちろん、将来に向けた重大な選択も多かった。
そんな時、彼を正しい方向に導いたのは純粋なチャレンジ精神だった。

多くの人に支えられた日々。

 F3のシャシーとエンジンが揃ってシリーズをスタートできることになりましたが、F3ではフォーミュラトヨタ(FT)とは比べものにならないほどランニングコストがかかります。参戦する上でスポンサーも見込めない。シーズンの半ばに入ると資金難に陥り、百田さんから「そろそろ腹をくくれ」と言われました。足りない一千万円以上のお金は、父が何度も頭を下げて銀行から借りることになり、それで1年目を何とか戦いました。
 少し話が戻りますが、スキルスピードでFTをやっていた時は、マシンを自分でサーキットまで運ぶ代わりにメンテナンス代を安くしてもらったりしていました。そのトラックは勤めていたサンユー技研工業(株)の4トンを毎戦借りていました。会社としても納品とかで使うんですけど、そのスケジュールを調整してくれていたんです。練習を含めたら水曜から借りて返すのが月曜早朝。その間、もちろん自分は会社を休んでいて……。とにかく会社には迷惑をかけたし、社長や皆のサポートがすごく助かりましたね。で、F3の1年目の最終戦で優勝できたんですが、その記事を社長がたまたま雑誌で見て、「お、こんなすごいことやっていたんか」と改めて思ってくれ
て、「もう少し別の形で応援しようよ」と周囲に呼びかけてくれ、津の市議会議員の方を通して、三重県の企業を回ってスポンサーを募ったり、後援会を作ったり、いろいろ協力していただきました。そういうサポートがあって、F3の2年目、資金的に一番苦しい時を乗り越えられました。
 スポンサーがついた3年目はお金の心配が少なくなり、レースに集中できる環境が整ったので、マカオGPで日本人初の表彰台に立てました。それで、マカオで表彰台に上がったんだからFニッポンにもすぐに乗れる……当時の自分はそう考えていましたが、そんな簡単ではなく、テストはさせてもらいましたが、結局シートは得られず00年は何も決まらないまま気づけば2月になっていた。どうしようと焦り始めた時、ナカジマレーシング(ナカジマR)のGTドライバーがまだ決まっていないという情報を聞き、すぐに中嶋(悟)さんに「何でもいいので乗せてください」と電話をしました。それで山口県の美祢サーキットでのオーディションに参加することができて、その結果00年をナカジマRで走れることになりました。シートが決まったのが3月、本当にギリギリでした。
 ずっとフォーミュラ路線だったので、頭のどこかでフォーミュラに復帰したいという気持ちはありました。でも結局、Fニッポンに乗ったのは02年だけ。そこからはGTに集中するシーズンが続いています。

新たな挑戦と決意。

 1年目はナカジマR、2年目はチームクニミツ、3年目の無限は2年いましたが、すぐにARTAに移籍。移籍を繰り返すことはいい事じゃないけど、移籍できるっていうのは各チームに評価されているからだと思うんです。だから、振り返ればGTでは比較的順調だったのかなと。
 意識が変わってきたのはファーストドライバーというポジションで乗った03年の無限から。ニュータイヤをたくさん使わせてもらったり、僕を中心にセットアップしたり、そこで得るものは大きかったですね。次に自分が変われたなって思えたのが05年。ARTAの2年目、シャシーが新しくなってメンテナンスが童夢になり、ワークスチームの環境を得られたことで、気持ち的に成長できたんです。07年はマシンやチームの状況が良く、歯車が噛み合って念願のチャンピオンも獲れました。時間がかかったけど、そのステップの中で色んな経験もでき、自分を育ててくれ、支えてくれた人たち、それとホンダにようやく恩返しができたと思いました。
 08年もホンダで走る考えもありました。ホンダやチームからは信頼を得ていたし、色んな発言をできる非常に良いポジションにいましたから。そのままホンダに残ることも悪い選択ではなかったと思います。でも、いろいろ考えました。このポジションの中でやっていくのもいいけど、もうちょっと自分を成長させたいな、と。これまでチーム移籍は多かったけど、すべて同じメーカー内。今度はそうじゃなく、もっと違う環境に身を置いてみてどこまでやれるのかっていう挑戦的な考えでした。今まで築いてきたものがなくなり、そこで失敗したら後がないかもしれない……。それでも挑戦したい自分がいた。だから08年、ホンダからトヨタへ、ARTAからチーム ルマンに移籍する決意をしました。
 昨年は思ったように成績が出ませんでしたが、今年は開幕からポイントを重ねることができてランキング2位(9月10日現在)。チームも自分もまだ成長過程ですが、精一杯やってチャンピオンを獲りたいし、獲れると思うし、とにかく最後まで全力で戦います

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
移籍後3年目のチーム ルマン。今年は開幕から優勝こそないがポイントを稼ぎ、チャンピオン争いの
中心にいる存在だ。  
 
 
 
 

 
 
 
 
鈴鹿レーシングスクール時代の写真。スカラシップに選ばれることはな
かったが、手ごたえは充分あった。ここで学んだことは今にも生きている。
 
 
 
 
 
 
 
 
資金難で苦しい時期だったF3時代だが、年一回開催のマカオ
グランプリでは日本人初の表彰台にも立っている。
 
 
       
 
 
 伊藤 大輔 (いとうだいすけ)
 1975年11月5日生まれ、東京都出身

95年にSRS-Fの第一期生で入校、96年にスキルスピードからフォーミュラトヨタにデビュー。97年にF3に上がり、98〜99年はマカオグランプリにも参戦して99年に3位表彰台を獲得。00年から全日本GT選手権(現スーパーGT)に参戦開始。チームを移籍する中でホンダ系チームのエースへと成長し、07年にARTA NSXを駆りチャンピオンに輝いた。08年はホンダからトヨタのチーム ルマンへ電撃移籍。今季も同チームからGT500を戦い、現在ランキング首位を堅守している。
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