エンケイホイールが足元を支えていることでも知られている
ステップアップカテゴリー「FCJ(フォーミュラチャレンジ・ジャパン)」
将来のF1ドライバーを目指す多くの若者が集まるカテゴリーであり、
シリーズがスタートした06年から激戦が繰り広げられてきた。
2010チャンピオンを決めた中山雄一もその中で育ったひとり。
今季の圧倒的な強さの秘密とともに、彼の半生を追いかける。



 レースを始めるきっかけになったのが、遊園地のゴーカートです。以前、父が4輪レースをやっていてレース好きだったこともあって、遊びに行くなら多摩テックとかゴーカートが乗れる場所が多かったんです。ただ当時5歳だった僕がひとりで乗れるゴーカートは少なく、どうにか父に探してもらったところ子供向けのキッズカートのスクールが開催されていることを知りました。参加して乗ってみたらすごく楽しかったです。スクールの最後にコースを1周したんですが、最初から前のカートに追突するほどの気合の入りようで(笑)。
 そういうふうに家族の協力があったので、始めたての頃はすごく活動的でした。父の車にカートを積んでキッズカートのサーキットに行って毎週のように練習して、レースもたくさん出ました。6歳の頃は1年間で60戦ぐらいレースに出たんじゃないですかね。1日2レース、3レースとかが普通で、もっとレース、もっとレースという感じで、とにかくレースをやってその中で経験を積み上げる日々でした。

成長期の悩み

 その後、東日本ジュニアというシリーズに参戦するようになって、コマークラス、カデットクラス、スーパージュニアクラスとステップアップしていきました。ずっと父がメカニックとしてサポートしてくれていたんですけど、もう本当に怒られた思い出しかないぐらいです。10〜11歳ぐらいの時に、学校の担任の先生に「つらかったら辞めてもいいんだよ」って言われたことがありました。「親とか家族に強制されているんだったら、先生から言ってあげるから」という話をされたんです。当時の僕は「5歳からやってきて、もう人生の半分をやっているから、退くに退けないんです」って答えていました。もちろん競争をしているので、つらいこともたくさんあったし、結果が悪くて家族の雰囲気が悪くなって嫌になることもありましたが、もう絶対に乗りたくないって思ったことはないです。親に強制的にやらされていたのではなく、最終的には自分が好きになってやり始めたことだったわけですからね。
 東日本ジュニアを卒業して、小学校6年生になった年は全日本ジュニアに上がりました。年齢的な条件を満たしてからの参戦になったのでシーズン後半しか出ていませんが、2歳年上の人とか先輩ばかりが集まるクラスに入っていくことに、すごく緊張したのを覚えています。それでもトップを走ったり3番手を走ったり、上位で戦えていました。でも、いざチャンピオンを狙おうとなった翌年はかなり苦しむことになりました。ちょうど自分の成長期と重なり、1年間に身長が10センチずつ伸びたんです。カートってもともと重量が軽くて重心が低く、それより重いドライバーっていう重量物を積んで走る乗り物。だからドライバーの体重とか身長とかにすごく左右される部分があるんです。身長が伸びれば重心も高くなるし、体重も変わってきます。今まで良かったセッティングでは走れなくなり、シート位置から何から狂ってきて、3〜4番は走れるけどトップは走れないっていうレースが続きました。その焦りからミスをしたり、無理なところで相手に仕掛けたりとか、レースを台無しにしてしまうこともありました。その悔しさを耐え抜いた1年が、翌年につながったんだと思います。
 中学2年になった翌年は全日本ジュニアとARTAチャレンジのRSOクラス、両方でチャンピオンを獲ることができました。当時のRSOも、参加台数が多くレベルも高い激戦区。すごく良い経験になりましたね。

世界レベルを知った。

 翌年は半年間、イタリアの「イタリアオープンマスターズ」というレースに挑戦しました。全日本ジュニアでチャンピオンを獲って、どこまで通用するのか? 向こうで走る順位は一番危ない真ん中から下の混戦グループ。そこで生き残るっていうレースをしてきました。エントリー90台の中から決勝進出が許されるのは36台。それを争う予選は本当に激しいものでした。年5戦あって、最終的に予選通過したのは最終戦の1回だけ、確か34〜35番手のギリギリだったと思いますが、それでもすごくうれしかったですね。
 その年の後半からは全日本カート選手権のICAクラスに出始めました。イタリアから帰ってきて自信だけはすごくあったんですが、今思えばまだまだカートの走らせ方が分かっていなくて、ダメダメな時期でした。セッティングも変な方向に振っていたし、「アンダー病」が直らなかったんです。アンダー病っていうのは、アンダーステアに苦しむ症状で、当時の自分はドライビングじゃなくてセッティングのせいでアンダーステアが出ていると思い込んでいたんです。全日本カートからはハイグリップタイヤというすごく軟らかくてグリップするタイヤを使い、それまで僕が使っていたタイヤとは走り方もブレーキングの仕方も変えなければいけません。それを認識せずに、同じような走り方、ブレーキの掛け方をしていたからアンダーステアが出てしまっていたんです。
 今になって思うのは、そういう失敗や苦い経験がたくさんできるのもカートの魅力だったんだなと思います。今年ダメでも来年頑張ればいいと思える余裕もあったので。4輪に上がれば1年1年が勝負で、来年頑張ろうなんて思っていたら確実にアウトです。ただ当時の僕は将来のことに関してもぼんやりとF1ドライバーになりたいなって考える程度で、フォーミュラカーなら何でもF1と一緒みたいな認識。4輪という世界はまだ遠い存在でした。


 
 
 
 
 
 
05年に参戦したJAFジュニア。同年に参戦していたARTAチャレンジRSOクラスとは違い、かなり苦労してチャンピオンを奪い獲った。それもまた自信のひとつとなった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
東日本ジュニア、JAFジュニアでの功績が認められ、07年にはカートドライバーなら誰もが憧れるヤマハワークス入りを果たして1年間全日本最高峰の舞台で戦った。また同年には鈴鹿開催のビッグレースCIK-FIAアジアパシフィック選手権にも参戦し、KF2クラスで7位を得た。
 
 
 
 
 
       
 
 
 中山 雄一(なかやまゆういち)
 1991年7月25日生まれ、東京都出身

5歳でキッズカートスクールに入校後、東日本ジュニアのコマー60エキスパート(99〜00年)、スーパージュニア(02年)でチャンピオン獲得。05年はJAFジュニア選手権とARATチャレンジRSOクラスでダブルタイトルを奪い、06はイタリアに挑戦した。07年全日本カート選手権最高峰FAクラス参戦(シリーズ3位)。08年から4輪にステップアップを果たしFCJに参戦開始、08年シリーズ13位、09年シリーズ4位、そして今年は4戦を残して早々と第8戦でチャンピオンを決めた。
http://ameblo.jp/yu-one-nkym/
   
         
 
 
 
 
 

レーシングカートで全日本選手権に参戦し始める頃になると、
誰しもフォーミュラをはじめとした4輪の世界を意識し始める。
中山雄一選手もそのひとり。
トヨタがドライバー育成として開催しているFTRSの門をたたいたのは、中学3年生の時。
そこから再び苦労の連続だったが、中山選手は自らの力で重い扉を開けて、
今年のFCJチャンピオンという光を手にした。

カート国内最高峰の世界へ。

 初めてFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)に参加したのは中学3年生の時、全日本カート選手権ICAクラスに参戦している年でした。ヒール・アンド・トゥができないまま最終選考には残ったんですけど、その最終選考が行われた富士スピードウェイでブレーキをどこまでいっていいのか分からず、1コーナーのブレーキも150mぐらい、かなり手前でした。
 翌年の全日本カート選手権はヤマハワークスでFAクラスを走りました。最初のタイヤテストで2秒ぐらい遅かったんですが、1日走っているうちに1秒落ちぐらいまで追いつき、レースウィークの練習までにはトップタイムを出せるようになっていました。成績は最終的にシリーズ3位、1勝もできなかったんですけど、第2戦の榛名では決勝の途中までトップを走れました。決勝途中にエンジントラブルでリタイヤしていなければ、あの時の走りは1年の中で一番良かったんじゃないかなって思います。その年、再びFTRSを受けて最終選考にも残ってTDPドライバーになれて、08年にFCJ(フォーミュラ・チャレンジ・ジャパン)デビューできました。

自分のリズムを見つけた。

 2回目のFTRSの最終選考は十勝スピードウェイでありました。限られた時間の中で自分のドライビングのレベルを上げていかなければならず、その切羽詰った中でブレーキングのコツを見つけることができたのが合格できた要因だと思っています。4輪で難しいのは、あるコースで走り込んでつかんだブレーキングでも、違うサーキットに行くとできなくなることです。路面コンディションも違うし、勾配やカントなどコーナーによって特性が違うんです。それをいち早く理解して、ブレーキング量やステアリングの切り始めのタイミング等で合わせ込まなければいけない。そのアジャストが難しいんです。だから、FCJ初年度も苦労していました(笑)。
 開幕戦の富士、1戦目はストールしてビリから追い上げて10位というレースで、第2戦では4位になれ3番手を走っていた3年目のドライバーにもどんどん追いついていたのですごく自信を持ってシーズンインできたんですが……。鈴鹿、もてぎと続く中で自信がなくなっていきました。特に鈴鹿はブレーキングが定まらず、クルマの曲げ方も分からない。他のドライバーのロガーデータを見ても、何でそういう走らせ方ができているのか分からなかったんです。1年目ですし、どういう完成形を目指せばいいのかも見えていませんでした。2年目はそれより良かったけど、鈴鹿の走り方は相変わらず見えませんでした。
 今年は開幕から連勝してチャンピオンを獲れましたが、そのきっかけになったのが昨年の最終戦SUGOラウンドです。結果は2位でしたがファステストを2回出して、トップのドライバーを追いかける中でその時は楽しめたんです。それまで表彰台3位に上がることはあったんですけど、悔しい気持ちが強くて楽しいと感じたことはなかったのに、あの時は自分が良いレースをしたなって感じられたんです。こういう乗り方が正解なんだ――2年間かけて徐々に固まってきたドライビングが最後にまとまった感じです。
 今年のオフの最初のFCJテストが始まり、最後のセッションでポンッとトップタイムが出た時は自分でも「あれっ!?」と思いました。もてぎに行ってもその調子を維持できて、開幕戦になったらコンマ5秒も他より速くて連勝できた。正直、自分の中で決定的な自信というのはなかったです。ただこの3年の間で変わったのは、練習中の気持ちの持ち方。FCJはタイヤのエア圧以外のセッティングが変更できず、ドライビングだけで速さを引き出さないといけません。そういう中での練習1時間は、ずっと自分のドライビングだけに集中しなければならず、最初の2年間はうまくできていなかったんです。今考えると当時は一生懸命やっているつもりだったんですが、ぜんぜんダメだったんだなって思います。
 割り切りもできるようになりました。すべてのセッションでトップタイムというのは難しく、タイヤや路面コンディションでタイムが出る時間帯は限られてきます。そこで走れないと上位タイムは難しい。でも、それでいいやって。今のコンディションで自分のベストを尽くして、練習しようって割り切れる。その結果が8戦連続ポールポジションにつながったんだと思っています。
 来年のことはまだ決まっていませんが、自分では“レースを続けていきたい”と思っています。個人的にはF3に挑戦したいですね。海外志望もありますが、現在の経済状況では厳しいのは分かっています。でも、経済状況が良くなった時に自分が国内で一番良いドライバーになっていて「行って来い」と声を掛けられるドライバーになっていたいですね。

 
2年間は苦労が続いたが、FCJ参戦3年目の今年は自力で開花してチャンピオン獲得。全12戦すべてでポールポジションを奪い、シリーズ10勝という大記録を残した。
 
 
 
 
 
 
 
 
ドライビングの基礎はカートで学んだ。
全日本カート選手権ではカートドライバーの誰もが憧れるヤマハワークスにも所属した。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 中山 雄一(なかやまゆういち)
 1991年7月25日生まれ、東京都出身

5歳でキッズカートスクールに入校後、東日本ジュニアのコマー60エキスパート(99〜00年)、スーパージュニア(02年)でチャンピオン獲得。05年はJAFジュニア選手権とARATチャレンジRSOクラスでダブルタイトルを奪い、06はイタリアに挑戦した。07年全日本カート選手権最高峰FAクラス参戦(シリーズ3位)。08年から4輪にステップアップを果たしFCJに参戦開始、08年シリーズ13位、09年シリーズ4位、そして今年は4戦を残して早々と第8戦でチャンピオンを決めた。
http://ameblo.jp/yu-one-nkym/
   
         
 
 
 
 
 

将来プロレーサーを目指す若手の育成を目的とした
カートのシリーズ戦「オープンマスターズカート」。
それを統括するKRP代表の河本卓也氏もその昔はレーサーに憧れ、
自らもカートで走り回っていた。
だが、あるきっかけで表舞台から離れることになり「サポート役」へと転向。
その分岐点で彼の背中を押したのは、
自らが書いた1枚の企画書だった。



レースを始めたきっかけは兄貴でした。ラリーをやっていたんです。で、兄貴がレース雑誌を買っていて、それを読んだらカートのライセンスが取れるっていう記事を見て、行ってみよってなって。まだ実際のカートって見たことはなかったです。滋賀県の八日市っていうスケートリンクのガレージをコースにしていて、そこでライセンス講習会が開かれてるからライセンスを取りに行きました。16歳の時、原チャリに乗って。そんな遠いなんて思ってなかったから朝に家を出て現地に着いたら昼を回ってて、もうライセンス講習会が終わってた。遅刻どうのこうのって言い訳をしてたらライセンスをくれはって、その時そこで初めてカートを見ました。何じゃこりゃ、めちゃ速いなって。
 貯金があったので、それで近所のバイク屋でカートを買いました。そこからカートを始めたんですが……結局、兄貴がいないとコースまで行けなかったんですよ。昔は車の上にキャリアを付けてそれで運搬するのが普通やったから。でも、一緒に行っていた兄貴が先にハマったんですよ。僕はどっちかっていったら見てる方。僕のカートは皆に遊ばれていた。その頃はプラグを換えるとかチェーンを換えるとか、まったく知らなかったんでプラグがかぶってることも知らず一日中押しがけをやってた。スピンしたら皆で押しがけして、押しがけ中に転んだり、轢かれたりなんてしょっちゅう。
 真剣にやり出したのは18歳から。免許を持って自分の車で行けるようになって、やっとそこから。関西カートランドで2〜3年練習したのかな。で、何かのイベントで日本のトップドライバーの走りを見て衝撃を受けて、自分もそこを目指したいなって思った。関西カートランドのチャンピオンを獲って少しずつクラスを上がっていって、その後に当時の地方戦に出ました。その時にまた堺カートランドで(鈴木)亜久里とか当時の全日本ドライバーのレースを見て憧れて、次は全日本だみたいな。とりあえず目標を毎年立てていましたね。来年は全日本の何々クラスとか、思い切って海外のレースだとか。全日本と並行して香港のレースには3年出たのかな。その後は世界戦だと、もうマンガみたいにやっていましたね。資金的には、当時からコツコツとスポンサーを集めてました。その頃から今みたいな活動もやっていたわけです。
 全日本に出ていたのは20代前半。全日本の成績はあんまり良くなかったですね。レースはトラ(高木虎之介)と戦っていて、ほとんどトラが勝っていましたね。いつもグリッドは横にいてるんやけど、レース終わったら僕はどっかに行ってしまってるみたいな。
 僕らにとって、ワークスチームは憧れでしたね。当時はヤマハワークスが全盛でしたが、僕は人と同じは嫌やったんですよ。で、無限がちょうどカートエンジンを出した時ぐらいで、僕は無限に企画書を持って行った。サポートしてくださいって。最初に行った時は1分で帰ってきた。受け付けで企画書を渡しただけで会社を出てきたんです(笑)。まあそんなんの繰り返しでしたよ。でも1年ぐらい通ったら2年目に部品を出してもらえるようになって、その後はエンジンやいろんなパーツをサポートしてもらえるようになった。
 全日本に出ている時に使っていたタイヤは最初はダンロップ。でも、無限に入ったことによってブリヂストンの方を紹介してもらいました。ちょうどブリヂストンがカートで西を攻めたいと思っていた時期。当時は西が真黄色、要はダンロップばかりやったんですよ。東は赤、ブリヂストン。無限とのお付き合いをきっかけに赤に入って、赤を広めたいから力を貸してくれと言われて。その時、僕はアライヘルメットの西日本のサポート任命係みたいなこともやってたんです。速いドライバーを僕が紹介するっていう。そんなことにも協力していたから、いろんなドライバーが僕のところに集まってきてた。その中に脇阪(寿一)だ金石(年弘)ら今の国内のトップドライバーたちも当時西地域でカートをやってて、それで彼らにブリヂストンを勧めた。で、成績もともなって西地域が赤色に染まってきたんですよ。当時はまだ僕も現役で走っていましたが、それが実績になって今につながるプロジェクトが動き出しました。(以下次号)

 

 
資金のかかる全日本時代は、スポンサー活動してスポンサードを受けていた。当時から営業力は今につながる大きな武器だった 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
過去にはエンドレスやカストロールと組んでチームを作りレースに参戦したこともあった。カートドライバーの中では“異色”の存在だった。  
 
 
 
 

 
 
 
 
自らが全日本現役時代にKRP設立。まずはカートチームとしてスタートすることが始まりだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
       
 
 
 河本 卓也(かわもと たくや)

16歳でカートスタート。全日本選手権に参戦しながら、90年に有限会社KRPを設立。当時はレーシングカートチームとしてスタート。96年から鈴鹿選手権で無限エンジンRSOを使用したクラスを始め、3ペダルのミッションカートクラスも新設。04年から新M4シリーズを猪名川サーキットでスタートさせ、その後関東でも同シリーズを展開。08年からARTAのシリーズ戦と統一して、現在の「オープンマスターズカート」という若手を育てるシリーズ戦に発展した。
http://www.krp-ms.com/
   
         
 
 
         
  Copyright © 2011 ENKEI Corporation All Rights Reserved.  
         
ENKEI WEBPAGE ENKEI WEBPAGE