ブリヂストンを西日本で広めることに成功した河本卓也氏。
次は無限からエンジンを広めたいと相談され新クラスを設置。
それが今につながる独自シリーズスタートの足掛けとなった、
自らがカートドライバー時代に、
スポンサー活動をするために書いた企画書をきっかけに、
河本氏の冒険は続いている。

貧乏人でも夢を抱けるレース。

 全日本カートのレースに参戦している時、ある人にレースを辞めろって言われたことがありました。「お前はどっちかって言ったら裏方、ドライバーをサポートする役の方が向いてるんとちゃう?」って。要は今の活動のようなことをやった方がええと。それから、本格的に動き出しましたね。カートに乗る方は遊びにして、スポンサー取りとかいろいろやり出した。自分がレースをやってきて、自分の中にはある構想がありました。フォーミュラにつながるクラスを作って、そこで結果を残せば貧乏人でもステップアップできる、夢を抱けるレースを作りたかったんです。
 ブリヂストンを全日本で広めて実績を積んだ後、無限からRSOというエンジンを広めてくれないかって話をもらい、じゃあエンジンレンタルでレースをやりましょうと関西地域でRSOクラスをやり始めました。無限としてはもっと広めたいという要望を持っていて、じゃあ今度は鈴鹿サーキットでやりましょうって話になって、鈴鹿のRSOクラスというワンメイクレースを始めた。同じ頃、SRS−F(鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ)がスタートして、僕らのRSOクラスで優秀な子たちをそこに入れられないかって考えたんです。当時はカートから4輪への橋渡しがなかったんですよ。だから僕はその橋渡しをやりたかった。RSOからいきなりフォーミュラに行くより、間にカートでありながらフォーミュラの練習になるクッションも必要やなって思ったから、3ペダルのカートを僕が提案したんです。それで無限に作ってもらって、3ペダルクラスのレースを鈴鹿でスタートさせたんです。で、チャンピオンを獲った子をSRS−Fに送り出す。塚越広大もそうやってフォーミュラに上がっていったドライバーのひとりです。

独自シリーズの立ち上げ。

 鈴鹿のレースは一応、形としては構築できて96年から8年ぐらいやりました。で、鈴鹿を出ることになったタイミングで名前を「M4」に切り替えて今度は自分たちのシリーズを作ろうって発展した。ホンダに協力してもらってイギリスにエンジンを買いに行って、最終的に4ストロークのエンジンでやろうと決まった。ランニングコストが安いのと、僕はエンジンレンタル制を考えていたので個体差が小さい4ストロークは魅力的でした。
 僕がやりたかったのはタイヤ、エンジンをワンメイク化して、エンジンは主催者である僕らが管理するレンタル制のレース。これは競艇のアイデアを真似ました。競艇もエンジンは抽選で、ヘラをたたくのが自分のカートシャシーをセッティングするみたいな感じですか。与えられたものの中で努力して速さを証明するっていうレースを目指したんです。モノの性能だけで速い子たちは、与えられたもので速く走れず4輪でも通用しない。だからカートのうちから純粋に腕だけを磨けないかな、と。
 でも、シリーズの立ち上げは大変でした。日本ではまだ4ストロークのエンジンに馴染みがなく、ほとんどの人が分からない状態。2ストロークと比べて水温は高めで2ストは40〜50℃、4ストは80℃ぐらいで走るんですが、何回言っても「オーバーヒートや」とか騒ぐ。苦情も多かったですわ。レンタルエンジンは抽選で決めるんですが、当たったエンジンが回らない、調子が悪いっていう苦情はしょっちゅう。まあそんな中で4年ほどM4を続けて、ARTAさんから一緒にやりましょうという話をもらって今の「オープンマスターズカート」という大きなものに拡大して、その中で優秀な子にはフォーミュラに乗るチャンスを与えられ、思い描いていたものに近づきようやく定着もしてきました。

カートを広めたい。

 とりあえずカートの中でトップエンド、要は上を目指す人たちに対してはそれなりのシステムを確立できたのかな、と。だから今はスポーツカートとキッズカートに力を入れてやっています。これらはギンギンにレースする人たちではなく、カートを始めたばかり、あるいはまだカートのことを知らない人たちを対象にしたクラス。カートってこんなにおもしろいんだよっていうのを広めて、カート人口を増やしていきたいんです。で、そっちがある程度また形になってきたら、今度はもう一度トップエンドの人たちの方に目を向けて、その時代時代に合ったベストなシステムにしていければと思っています。
 小林可夢偉、塚越広大やら、うちのレースから育った子たちが今、世界や日本のトップで活躍しているのを見ていると、すごくうれしい。自分たちがやってきたことは間違っていなかったって思います。同じ日本人として、彼らには世界を相手に戦って活躍してほしいし、そういう姿を見て今上を目指している子たちも頑張ってほしい。僕らはそのサポートを今後も続けられればと思っています。

中央が河本氏。左がスーパーGTやFニッポンで活躍する塚越広大選手、右がF1で活躍する小林可夢偉選手で、ともに河本氏のレースの卒業生だ。
 

 
 
 
 
04〜07年に開催されていた河本氏がスタートさせたM4シリーズ。イコールコンディションのレース内容は好評で、接戦の中で腕を磨いて4輪にステップアップしていったドライバーも多い。
 
 
 
 
 
 
 
サポートする企業が多いことも河本氏が作ったシリーズの特徴。華やかな舞台を作ることでドライバーや関係者の満足度も上がる。また何より、憧れられる舞台であることが大事だと河本氏は語る。
 
 
 
 
 
 
 
子供がカートを体験できるイベント「キッズカート」。レースやイベント等で特設コースを設置して開催してカート普及活動を行っている。
 
       
 
 
 河本 卓也(かわもと たくや)

16歳でカートスタート。全日本選手権に参戦しながら、90年に有限会社KRPを設立。当時はレーシングカートチームとしてスタート。96年から鈴鹿選手権で無限エンジンRSOを使用したクラスを始め、3ペダルのミッションカートクラスも新設。04年から新M4シリーズを猪名川サーキットでスタートさせ、その後関東でも同シリーズを展開。08年からARTAのシリーズ戦と統一して、現在の「オープンマスターズカート」という若手を育てるシリーズ戦に発展した。
http://www.krp-ms.com/
   
         
 
 
 
 
 

何事にも、常に全力でぶち当たることも大切なことではある。
だが、真っすぐに進むより、遠回りに見える向こうの道の方が傾斜は緩やかで
最終的な時間においては早かったりもする――
冷静な目を持ち、一歩立ち止まる勇気と余裕。
それを持てない若い頃は歯車が噛み合わずに苦労した。だが、今は違う。
階段を上がっていく中で国本雄資はどう変身していったのか?

カートとアルペンスキー。

 父がレーシングカートのプロドライバーだったんです。僕が生まれる前には辞めてしまったんですけど、叔父さんもカートをやっていてそのレースを兄と一緒に見に行っていました。興味を持った兄が最初にカートに乗り始めて、僕も乗りたくなって乗せてもらったのがカートを始めたきっかけでした。初めてカートに乗ったのは6歳の時。兄は最初から速くて、僕が走っているとどんどん抜いていく。それがすごく恐かったのを覚えています。でも、何回か乗るうちに負けたくないな、もっと速く走りたいなって思うようになってきましたね。
 7歳から小さいローカルのレースに年1〜2回程度出ていましたが、12歳で本格的に始めるまでにアルペンスキーをやっていた時期がありました。アルペンスキーは知人がやっていて最初は遊び程度だったんですけど、夏はニュージーランドへ合宿に行ったり、冬はずっと山にこもったり、かなり本格的にやっていました。大会にも出ましたし、かなりの有望株だったんですよ(笑)。ただやっているうちに、スキーでは雪国出身の選手にはかなわないなって思うようになりました。僕は体も小さくて体重も軽かった。アルペンスキーは斜面を下る競技なので、体重が重い方がスピードがつくから有利なんですよ。曲がる時にはその体重を外側の足に乗せて踏ん張らなければいけないんですけど、僕は体重が軽いしそこまでパワーもなかったから、どうしても体が大きくて体重のある選手にはかなわない。そういうのもあったし、やっぱりレースの方が好きだなって気づきました。レースだと抜きつ抜かれつがあるけど、アルペンスキーはタイムを競う競技。それで12歳の時にカートに戻ってきたんです。

悔しいカート時代。

 アルペンスキーの経験はレース活動の上ではムダなように思えますが、あの経験は今でも生かされています。アルペンスキーは1回の滑走タイムを競うんですけど、その前に1本、ゆっくりコースを見られる時間があります。そこでコースを覚えなければいけないし、どういうラインを走るかというイメージを作らなければいけないんです。レースでも初めてのサーキットを下見する際、どういうふうに走ろうかとかイメージを作る上ではすごく役立っています。
 12歳でカートに戻ってから、まずは全日本ジュニアに出ました。2年間そのシリーズに参戦して、翌年から2年間は全日本選手権のICAクラスに出て、翌06年は全日本選手権の最高峰FAクラスに参戦しました。ひとつ上のクラスに出ていた兄はカートでも速くて、チャンピオンも獲りました。それに比べ僕はそれほど勝てなかったしチャンピオンも獲れず、悔しい思い出が多いです。一番悔しかったのがICAクラス1年目のレースで、今でも忘れられません。最終周までトップを走っていたんですけど、そこでなぜか緊張してしまって(笑)、ヘアピンでブレーキを踏んだらタイヤがロックしてしまい、2番手のドライバーに抜かれてしまったんです。普通に走っていれば優勝できたはずなのに……悔しすぎてレース後に泣きました。他のレースも、その年はぶつかることが多くて結局は勝てませんでした。ICAクラス2年目は2回勝ちましたが、やっぱり自分をコントロールできないレースが多くてチャンピオンは獲れませんでした。たぶん気持ち的に子供で、ガムシャラすぎたのかなって思います。でも、あの頃のそういう悔しさが残っているから今も頑張れているところはありますね。

メンタル強化で変身。

 全日本選手権FAクラスに参戦する16歳の時にFTRS(フォーミュラトヨタレーシングスクール)を受講して、翌07年からFCJ(フォーミュラチャレンジジャパン)に参戦し始めました。途中から何回か勝つことができて、08年はチャンピオンを獲ることができましたが、1回勝つまでは自分はダメなのかな、向いていないのかなってあきらめかけていた時期もありました。
 そこで勝てるようになれたのは、気持ちが変わったことが大きかったと思います。当時、メンタルトレーニングをやるようになって、勝つ前まではあまりレースのプロセスを考えないで結果ばかりを意識して走っていたことに気づいたんです。勝つちょっと前ぐらいからは結果よりも、今何が自分に足りないのかなと考えるようになり、ひとつひとつ課題をクリアしていこうと考え方を切り替えられました。どんどん速くなっていくとレースが楽しくなってきて、それがまた結果につながっていったんだと思います。フィジカルは鍛えれば筋肉がついたり目に見えて成果が出るけど、メンタルって目に見えないもの。スポーツでは体や技術も大事ですが、メンタルも同じぐらい大切なんだと感じました。もしその頃からメンタルトレーニングをやっていなかったら、おそらく昨年のようなつらいシーズンは乗り越えられなかったと思います

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12歳から本格的にレースに出始めると、全日本ジュニア、全日本選手権と、4輪を目指す誰もが通る道を選んできた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カート時代のヘルメットデザインは父親がカートレースで使用していた時のレプリカだった。
 
 
 
 
 
 
 
ひとつ年上の兄・京佑とカートレースで直接対決することはなかったが、「いつも良い刺激を受けてこられた」と言う。兄は08年のF3マカオグランプリで勝ち最年少優勝記録を樹立。兄弟そろって将来を期待されている。
 
       
 
 
 国本 雄資(くにもと ゆうじ)
 1990年9月12日生まれ、神奈川県出身

6歳でカートスタート、12歳から本格的にレース参戦を始め14歳で全日本カート選手権に挑戦。06年にFTRS受講、07年にFCJで4輪デビューを果たし、08年にFCJ王座を獲得する。09年から全日本F3選手権に上がり、昨年そのタイトルも手に入れた。今年も上級フォーミュラへのステップアップを目指す。
http://www.yu-g.net/
   
         
 
 
 
 
 

08年にFCJでチャンピオンに輝いた後にF3へステップアップ。
2年間、最強チームのトムスで走り、09年に王座を獲得したが――
「チャンピオンを獲った09年が一番苦しかった」と国本は言う。
チャレンジャーとして戦った1年目とは違う環境、気持ち。
周囲から勝って当たり前と言われる中で
連勝しながらも国本はただひとり、1勝1勝へのプロセスを大事に走っていた。

見えない敵と戦う。

 FCJにデビューして2年間参戦し、F3も2年間トムスで走りましたが、一番つらかったシーズンがチャンピオンを獲った昨年でした。F3の1年目はチャレンジャーという気持ちでガツガツいけたし、本当に毎戦毎戦、戦っている感じがしていました。もちろんFCJからF3マシンへの乗り換えという部分のドライビングでの苦労や考えることはたくさんありましたが、そんなに悩むことはありませんでした。やればやるだけ速くなったし、ライバルも多かったので絶対に追い越してやろうって気持ちも強かったですからね。それに比べ昨年は、ライバルがいなくなってしまってどちらかと言ったら自分が追われる立場になってしまったんです。開幕から連勝する中でいろんなプレッシャーがあったし、勝てば勝つほどプレッシャーも強くなってきましたから。
 ただ、自分でもまさかあんなに勝てるなんて思ってもいませんでした(開幕から10連勝)。自分でもラッキーだなって思う部分もあってちょっとびっくりしましたし、それが逆にプレッシャーにもなりました。あそこまで勝ち続けたらもう絶対に負けたくないなっていう思いが強くなってきて。8連勝したぐらいから、ここまできたらもう全部勝ちたいなって気持ちになったけど、シーズンはまだ半分あるんだ、長いなって思ったり。
 一番つらかったのが、「敵がいないから勝てる」みたいなことを周囲から言われることでした。やっぱりレースで勝ち続けることって難しい。速いやつが来ても負けない自信はあったし、そういうやつと戦いたいっていう気持ちも強かったです。それで勝ったら認めてもらえるんでしょうけど、そういうライバルがいないから勝って当たり前みたいに言われるのがすごく苦しかった。自分はどちらかと言うとずっと挑戦者でいたいタイプなんです。強いやつと戦いたい。それはカート時代から変わらない気持ちです。
 シーズンが始まる前からそういうシーズンになると分かっていましたが、ここまで大変だとは思っていませんでした。敵はいない、いないと言われても、自分の中ではずっと“見えない敵”と戦っているような感じでした。当然、勝つことを1番に考えるんですけど、ポールポジションを獲るにしても勝つにしても、そこまでのプロセスを大事にしようって。同じ1番でも第1戦から第2戦、そして中盤戦での1番は違うもので、1番でありながら成長していけるようにって。だから1位を走っていても絶対に気を抜かないで、レースを最後まで全力で走りきることをいつも考えていましたね。勝ってもあまり喜ばないなんて言われたこともありましたが、そのプロセスの中で自分に科した課題をクリアできての勝利だったので、自分では1勝1勝がうれしかったのは本当です。シーズン後半に勝てなくなってしまい、マカオGPでも成績を残せませんでしたが、自分の中では過去最もつらい反面、最も意味のあった1年だなって思っています。

チャンスは必ず来る。

 09年から参戦し始めたGT300も大変でしたね。とにかく車両の感覚に慣れて、それを速く走らせるっていう部分で。今まで扱ったことがない車だったし。GT300のマシンは攻めれば攻めるほどタイムが出ないんです。タイヤもすぐ減ってフラフラ。最初の頃はハイエースで攻めている感覚でした。前後のピッチングも左右のロールも大きくて、何じゃこりゃって(笑)。でも、ラウンドを重ねるごとにそれはクリアできていきました。タイヤをセーブすることも分かったし、車体をどう動かせば一番いいのか、その感覚が分かってからは急にタイムが出始めましたね。ずっとフォーミュラしか経験していなかったので、とてもいい経験になりました。将来のレース活動で役に立っていくものだと思っています。
 今後の話は……ここ数年で大きく状況が変わってしまったので自分では何とも言えません。本当は昨年F3でチャンピオンを獲って、今年は海外に挑戦したいなって考えていましたが、海外でやるのは大変なことだしお金もたくさんかかる。そういう意味で今年すぐに実現させるっていうのは難しいことですが、この先にチャンスがなくなったわけではないので、今年は国内で経験を積みつつスキルアップして、チャンスが来た時にしっかり結果を出せるように準備しておきたいなって思っています。。
 小さい頃は何も考えずに、ただ楽しかったからいっぱい練習して、皆より速く走って1番になったらうれしいっていう気持ちがあったんですけど、フォーミュラに乗り始めてF1ドライバーになりたいなって思い始めました。今もF1ドライバーになりたいですけど、そう簡単になれるものじゃないし、いろいろドライビングテクニック以外にも大きな力が必要になってきます。とにかく今はどんなカテゴリーであれ世界で1番になりたい、それを目標にしていきたいと考えていて、メンタルトレーニングをやりつつ、フィジカルトレーニングにも力を入れています。週3回ジムに行っていますし、ジムに行かない時は15キロぐらい走っています。いつかチャンスが必ず来る、そのための準備をしっかりしておくために。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今季は国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンにステップアップを果たし、3月11〜12に行われた鈴鹿合同テストからマシンを走らせ始めている。  
 
 
 
 

 
 
 
 
 
       
 
 
 国本 雄資(くにもと ゆうじ)
 1990年9月12日生まれ、神奈川県出身

6歳でカートスタート、12歳から本格的にレース参戦を始め14歳で全日本カート選手権に挑戦。06年にFTRS受講、07年にFCJで4輪デビューを果たし、08年にFCJ王座を獲得する。09年から全日本F3選手権に上がり、昨年そのタイトルも手に入れた。今年も上級フォーミュラへのステップアップを目指す。
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