日本のロータリーエンジンチューニングの第一人者である
RE雨宮自動車の雨宮勇美氏
数多くのチューニング&ドレスアップカーを手がけ、
レース界でもRX-7とともにGTで結果を残してきた。
エンケイホイールとも長く付き合ってきたRE雨宮と雨宮氏の歴史を振り返りつつ、
昨年16年間続いたGT参戦に終止符を打った経緯も語ってもらった 。

夜逃げをして車屋へ。

 かなり古い話になりますけど、もともと僕は中学校を卒業してすぐに東京に来て、それから自動車関連の仕事に就いたんです。今はもう65歳ですから、当時は車なんてそんなに走っていない時代。東京に来て1年間は羽田空港内で働いていたんですけど、仲間3人と夜逃げをして、そして何でもいいからって言うので3人で自動車屋に入ったんですよ。そしたら、そこの自動車屋さんが板金・塗装と運送をやっていて、その技術を学ばせてもらったんです。で、その板金・塗装の仕事をやっている中で、マツダのディーラーの車を扱うことが多く、そこでロータリーエンジンと出会ったんです 。

ロータリーの魅力。

 その職場やお客さんの中に2〜3人、夜中に湾岸とかを走りに行く走り屋がいて、僕もそこに連れて行ってもらったんです。それ以来、スピードっていうのに憧れていつの間にか僕も走り屋に目覚めたんですよ。そんなことをやってる中で、ロータリーエンジンをバラした時に衝撃を受けた。ロータリーエンジンってすごくコンパクトなんです。こりゃ面白そうだなってことで、夢中になっていきました。
 シャンテの車体にロータリーエンジンを載っけて湾岸を走りに行くじゃないですか。ほとんど毎回壊れる。直して翌週も湾岸に行って、壊れて……の繰り返し。ロータリーエンジンって結構、流用がきくんですよ。20Bのパーツでも13Bと共通性があったり。普通のレシプロエンジンの場合、壊れたらボーリングに出さなければいけないじゃないですか。バルブステムシールが壊れたらどこかに出して直してもらわないといけない。とても1日でできる作業じゃない。でも、ロータリーエンジンはパーツを交換すればすぐに組めてしまう。そういうのも魅力でした。結局、僕みたいな素人がやってもできたんです。だから、おもしろかったですね。壊れても直してすぐに走りに行ける。ここが壊れたら今度はこうしようとか、そういうメイク&トライを毎週のようにやっていましたね。暴走族っていうより競走族の世界。競走族って飛ばすスリルが好きな人たちのことなんです。それからモーターマガジンの企画で最高速トライアルをやるようになって、そこでも刺激されてさらにスピードの虜になっていきました。エンジンだけでなく、他のものもチューニングをするようになったんですよね。そういったことをやる中で、チューニングショップを開こうかってことになったんです。エアロ作りに目覚めたのは88〜89年あたり。ガルウイングとか気に入って、多くのチューニングカーを東京オートサロンなんかで出展して、たくさんの賞ももらいました。でも、何台も手がける中で、見た目がかっこいいエアロもいいけど、最終的にはトータルバランスが重要。つまり、今度は速さを追求し始めたんです。サーキットで速いエアロはどういう形状がいいのか? 手探りの中、自分でああでもないこうでもないって考えて、いろいろやってましたね。えらい昔の話ですけどね。

踏み込んだレースの世界。

 レースに興味がなかったわけではないんです。まずスピードありきだっただけです。実は僕もフレッシュマンレースには出たことがあるんですよ。サバンナGTでした。だから、レース自体は好きなんですよ。ただ僕は練習が嫌だった(笑)。何かを考えて、それが速さにつながる。そういう作業をするのが一番好きだったんです。チーム監督っていう立場も長らくやってきましたが、レースウィークにそういう立場でサーキットに行くのは、実は嫌なんですよ。エンジンをさわったりしてる方が気が楽で自分には合っているって思っていたほどです。
 チューニングショップを立ち上げて、トラストさんと知り合いました。トラストさんはレースをやっていて最終的にはル・マンまで行ったじゃないですか。ああいうのを見て、やっぱり憧れましたね。いや、僕もレースやりたい、ル・マンにとか行きたいなって、それで今度はレースにハマっていくんですよね。チューニングショップで終わりでは意味がないな、レースをやりたいなって。最初はマツダのフレッシュマン。FCでチャンピオン獲って、ユーノスロードスターでも獲って、それからJSS(ジャパン・スーパースポーツ・セダンレース)をやり始めた。第一回世界大会にも出たことがあるんですよ。そういったステップアップを果たして、95年JGTC(現スーパーGT)に挑戦することになりました。そこから16年も参戦することになりましたが、本当につらい時期も多かった。でも、ロータリーのプライドっていうか……応援してくれる人も多かったので、とにかく火を消さないように火を消さないように続けてこられたんです。


 
 
  
 
 
4年ほど前に雨宮氏が手がけたエアロ。「これは速さじゃなく見た目重視。サーキットで速く走ろうと思ったら
形状を変えなければいけないね」。
 

 
 
 
 
千葉県にあるRE雨宮の店内にはロータリーエンジンの
カットモデルが誇らしげに置かれている。
 
 
 
 
 
 
 
この業界に入って50年以上経つが、いまだ「現役」。「監督とか代表って言うよりも、今でも作業場にこもって仕事をするのが好きなんですよ」。そう語る雨宮氏の手には、車屋らしい汚れと傷があった。
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 雨宮 勇美(あめみや いさみ)
 1946年3月3日生まれ、山梨県出身

RE雨宮自動車の代表。シャンテにRX-7のロータリーエンジンを移植するなど、改造車が法律でも世間的にも認められていない時期から活動。改造車を車検に通す活動もいち早く取り組んできた。95年からJGTCに参戦してRX-7を走らせてきた。06年にはチャンピオンを獲得している。
http://www.re-amemiya.co.jp/
   
         
 
 
 
 
 

95年からGTに参戦し続けてきたRE雨宮。
初年度にシリーズ総合2位に輝き
96年以降も常に上位争いを続け、06年に初チャンピオンを獲得――
ところが、雨宮氏はその06年オフが一番つらい時期だったと振り返る。
ロータリーエンジンを愛した雨宮氏は
その4年後に大きな決断を下した。

セパンで10戦中5勝。

 本格的なチームとしてレースをやり始めたのは95年のJGTCからです。最初は本職をやりながらレースマシンのメンテナンスもやっていたから、成績は良くありませんでした。で、メンテナンスをRSファインに任せることにして、うちはエンジンとエアロとコンピュータに専念。そうしないと最終的には勝てない厳しい世界でしたね。
 16年やってきて、うちが誇れるのはお金をあまりかけていないこと。レースの世界ってお金をかければきりがないけど、ロータリーエンジンはお金がかからないんです。他チームよりお金がかからないから16年もできたのかもしれないですね。マツダ参戦車が1台ってことでお客さんの応援も多く、それも励みになりました。ただレーシングカーは毎年進化していくものですが、ロータリーエンジンは30年前とあまり変わっていない、最初から完成度が高いけど大きな進化がない……そういう部分での厳しさはありました。GTのように吸気制限されると、エンジン磨耗も早いんです。そんな中でも勝つことができたのは、大したもんだと我ながらに思います。セパンでは10回やって5回も勝った。セパンってレースが少ないから路面ミューが低いんですよ。ロータリーエンジンはトルクがないから、ミューが低いところはドライバーもアクセルを踏んでいける。ミューが上がってくると最終的に皆のタイムも上がってきますけど、いつも初日はタイムが良かったのを覚えています。RX−7がタイヤにやさしい車だっていうのもあったでしょうけどね。ただ、燃費は悪いですよ。GT500と変わらないぐらい(笑)。
 厳しいっていう部分では、パーツが不足してきてからは必死でしたね。メーカーは車を販売してから10年間は純正部品を作る義務があるんですが、それ以降は出回っているものしかもうない。だからその期間が終わった後、エンジン関連のパーツを探すのに苦労しましたよ。解体屋を回ったり、知り合いの知り合いから「部品取りしていいよ」って言われたパーツを持ってきたり。レースでは上位を走っているけど、内情はそんな感じだったんです。

今後は底辺拡大を目指す。

 そんな思い出深いGTですが、撤退を決めました。それは昨シーズンスタート前から覚悟していたことなんです。昨年、一応スポンサーはついたんですけど、チームを1年間運営するには足りなかった……。そこで、ムティアラモータースに「シーズンが終わったらクルマを渡すから、スポンサーフィーを上げて」と頼んだわけです。昨年の契約の時に今年レースができなくなることは分かっていたし、覚悟は決めていたんです。ただ、まったく今年走れなかったかと言えば……ムティアラモータースは「そのままクルマを使ってもいいよ」と言ってくれたんですが、結局やるとなると金銭面でまた苦労することになる。良いドライバーを連れてくるにもお金はかかりますからね。それにあのクルマは7年も使っているんですよ。そろそろ潮時かな、と。
 でも、今思えば金銭面で一番厳しかったのは07年かもしれないですね。06年チャンピオン獲ったのに、07年にスポンサーがまったくつかなかった。その時も辞めたい気持ちは強かった。走れば走るほど赤字になるわけだから。ただ、続けて良かったこともありました。08年からスポンサーがついたし、09年にはシリーズ2位、10年にはシリーズ3位になれたし。でも、この業界で最終的に引き際を決める要因になるのは金銭面じゃないですか。うちの本業はチューニングショップ。従業員は15人もいるわけですからね。
 今後はRX−8でD1参戦を継続して、ロータリーエンジンの火を何とか消さないようにしていきたいと思っています。D1参戦を続けながら底辺を拡大するというか、ストリートを楽しんだり、サーキット走行する人たちをもっともっとサポートしていきたいなという気持ちが強いんです。フレッシュマン全盛期、エントリーしても台数が多いから受理されないこともあった。そういう時代を知っていますし、もうそんな時代は来ないだろうなとも思います。でも、ひとりでも多くの人に車の良さを再確認してもらって底辺から盛り上げていくことが、チューニング業界やモータースポーツ業界に対して、そしてマツダや僕らのレース活動を支えてくれた人たちすべてに対しての恩返しになるのでは、という考えも僕の中にはあり、それを大事にしていきたいなと思っています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
GT参戦初期の頃は、本業をやりつつのレース参戦だったため、スタッフの疲労もたまった。レースで頂点を目指すために必要なこと、それを理解して雨宮氏は分業体制でレーシングチームを動かしていくことに。
 
 
 
 
 
GT参戦当初から上位争いに加わっていたチームは、96〜01年まで連続5回シリーズ4位を獲得している。98年からマツモトキヨシがメインスポンサーとなり、青とピンクのボディカラーが黄色一色に変更され、やがてチームカラーになった。
 
 
 
 
 
長くレースに参戦してくる中で、悩みも増えてくる。成績を求めれば車両開発費用や速いドライバーとの契約料がかさむ。結果が出なければスポンサーもつかない……。「葛藤の中で16年続けてきた」と雨宮氏は語るが、「続けたからこそ開いた扉もある」と過去の自分を笑顔で振り返る。
 
 
 
 
       
 
 
 雨宮 勇美(あめみや いさみ)
 1946年3月3日生まれ、山梨県出身

RE雨宮自動車の代表。シャンテにRX-7のロータリーエンジンを移植するなど、改造車が法律でも世間的にも認められていない時期から活動。改造車を車検に通す活動もいち早く取り組んできた。95年からJGTCに参戦してRX-7を走らせてきた。06年にはチャンピオンを獲得している。
http://www.re-amemiya.co.jp/
   
         
 
 
 
 
 

09年末、レーシングカート界のオリンピックと称される
ロータックスMAXグランドファイナル・エジプト大会で
笹原右京は日本人初優勝という快挙を成し遂げた。
6歳からレーシングカートを始めた彼が世界に目を向け
幼少時からどのような努力を積み上げてきたのか?
世界の舞台で輝く今日までの軌跡を追いかけてみる――

雨中のスリック走行。

 父が以前、ダートトライアルをやっていて、僕はオムツを付けている時から見に行っていました。その影響もあって5歳の秋頃からカートを始めたんです。カートに初めて乗った時はただおもしろいと単純に思っていましたね。最初に乗った場所は群馬県のハルナモータースポーツランドで、カートはコマー60というカテゴリーでした。
 レースデビューは7歳。04年から東日本ジュニアのフレッシュマンに出始めて、途中から激戦のエキスパートクラスに上がって数戦レースをして、05年はエキスパートクラスをメインに参戦しました。当時こだわっていたのが、さまざまなカートに乗るようにすること。パッと違うカートに乗ってパッと速く走れる技術を身に付けた方がいいのかなと思い、毎年のように違うカートに乗るようにしました。一番最初がトニーカート、その次がテクノ、マラネロ、コルゼ、05年はまたトニーカートに戻りました。その当時の経験は今でも生きていますね。
 また当時の練習法で今役立っているものがもうひとつあります。カートを始めた頃にまだレインタイヤを持っておらず、他の子たちがレインタイヤで練習している中で自分はドライのスリックタイヤでずっと練習をしていました。もちろんかなり滑るんですけど、そこでマシンのコントロール能力を勉強できました。どんな滑る路面でもすぐにそれなりのタイムを出せるようになり、今では大きな武器ですね。その練習は今でもやっています。

忘れられない08年。

 06年はM4というレースに参戦しました。当時、一番レベルが高いレースとして有名で、とにかくバトルが激しいんです。自分もそこで力を試してみたいなという思いもありました。カートをやり始めた頃は乗るのが楽しい気持ちでいっぱいでしたが、この頃には速い人、強い人と勝負がしたいという気持ちが強くなってきていました。シーズン最初に前哨戦レースが御殿場であり、そこで優勝することができて最初から手ごたえはあり、1年目にチャンピオンを獲ることができました。
 翌年もM4に出ましたが、前年に10戦中5勝を挙げることができたので、その年は全勝を目標にしました。自分的にはやっぱり勝って満足したいタイプなので。勝てなかったレースは全部悔しいんです。2位も3位も一緒、勝てなければ全部負けだと思っています。
 これまでのカートレースの中で一番悔しかったのが、08年のJAFジュニア選手権のFPジュニアクラスの最終戦鈴鹿戦ですね。最終戦までチャンピオンの権利を残し、練習では速さもあり、当日はいけるかなって思ったんですけど、思うような展開になりませんでした。前日の夜に雨が降ってタイムトライアル時の路面に雨が残ってしまったんです。僕はA組の3〜4番手で、悪くはなかった。でも、B組が始まる頃には路面が乾いてグリップし始めて、僕のグリッドが後方になってしまったんです。予選も天気は曇りで雨が降りそうな気配がありましたが、うまく順位を上げて決勝でトップグループに入り優勝できればいいかなって思い、僕はスリックタイヤを履きドライ寄りのマシンセットにしました。そしたら、スタート直後に雨が降り出した。完全にドライレースを予想していたマシンセットだったので、ぜんぜんグリップせずに何とかコース上にいるだけで精一杯でした。決勝は最初から雨。そういうコンディションは好きだったので、16番手グリッドからでも優勝は狙えると思ってスタートしましたが、直後にプッシングを受けてスピンして最後尾まで落ちてしまった…。ファステストラップを連発して追い上げはしたものの、最後は10位フィニッシュでチャンピオンは獲れませんでした。優勝も逃したし、1年目でチャンピオンを獲るっていう目標を達成できなかったので本当に悔しかったですね。
 海外に目が向き始めたのは07年からです。その年、前年のM4チャンピオンのご褒美として、カート研修でイタリアに行かせてもらったんです。本場のカートレースを見て、今すぐここで戦いたいな、世界の速い人たちとレースをしたいなっていう気持ちが高まりました。07年からロータックスMAXというエンジンを使用したクラスに出始めたのは、そのエンジンが世界中で使用されていて、世界のレースにつながるエンジンだから。世界への挑戦は、イタリアから帰国した僕にとって最優先すべき目標となっていました。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
右京という名前は元F1ドライバーの片山右京氏からもらったもの。生まれる前からレース人生が決まっていたと言う。  
 
 
 
右京選手はレーシングカートに乗る前からドライビングを磨いていた。ドリフトしながら家の周囲を走り回っていたとか。
 
 
 
レーシングカート活動を始めてから、レース経験のある父がメカニックを担当。「こだわりを持って育ててきましたが、うちは褒めて伸ばすタイプでした」と語る。
 
 
 
幼少期から週末はレースか練習でサーキットを訪れることが多かった。練習では誰よりもたくさん乗り、「疲れた」という弱音も吐いたことがない。
 
       
 
 
 笹原 右京(ささはら うきょう)
 1996年4月24日 群馬県出身

5歳の頃からカートを始め、ハルナシリーズで腕を磨き、06〜07年に激戦のM4で連覇を果たす。07年からロータックスMAXクラスに参戦を開始、09年には国内選抜ドライバーとしてエジプトで開催されたグランドファイナル大会で日本人初優勝を果たす。10年からロータックス・ユーロチャレンジに挑戦、2年目の今年は2戦を終えて2勝。チャンピオンを目指す。
http://gogoukyo.com/index.html
   
         
 
 
         
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