2歳の頃デパートで売り場から離れず、親が根負けして買ってくれたペダルカーで、 幼稚園に入る頃には車庫入れが得意技だったという菰田氏。 父親が購読していたモーターマガジンを子供の時から読み、 高校で軽自動車の免許を取った頃にはクラッチを踏まなくても全部シフトが出来るほど、 運転が好きでのめり込んだという。 そして、20才でレース仕様のフロンテLC10Wでレースを始める。 今回は、菰田氏ご自身のことについて語っていただいた。
同じスピードでは曲がれない。 学生で20歳の時にレースを始め、ハコで走っていた時は操っている自信があったんです、過剰なくらい(笑)。ところがFJ1300にステップしてマーチ743に乗った時に初めて“速いな”“怖いな”と感じました。星野一義さんや長谷見昌広さんも走っている頃で、星野選手の後について走ると、全開に近いスピードで曲がる鈴鹿の130Rで、僕はしっかりブレーキを踏まないと曲がれないのに星野選手はスッとアクセル抜いただけで曲がっていく。それで20m位の差がつくんです。同じスピードで曲がるのは1億円積まれても僕には出来ないと感じたとき、プロドライバーを諦めました。26才でしたね。レースを辞めた時、タイヤメーカーからテストドライバーの声をかけていただいたので、テストコースがある九州に引っ越しました。 タイヤのテストドライバーに徹していくと、速さを追求するレースの走り方とは全然違うんです。テストではAとBのタイヤを評価する時、毎回同じ走り方をしなければ違いが分かりませんから、自分の技量の80%位で常に一定で走り、余裕の部分で評価をしていきます。センターの微少操舵の時に手応えと応答性はどうかとか、頭のメモリーをフル回転しながら走り、終わったらレポートを書く。それを4年2ヶ月繰り返してきたんですが、僕にはテストドライバーの方が合っていたのかなっていう気がしますね。当時、新しいハイパフォーマンスタイヤ立ち上げの時で、初期の製品は全部僕が味付けしたんですよ。
ドライバートレーニングとの出会い。 テストドライバーを辞して東京に戻ったのは、娘を東京で小学校に入学させたくて(笑)。それで、フリーランスのジャーナリストとしてスタートしたわけですが、何のツテもなかったので、忙しくなるまで3年くらいかかりましたか。 87年に雑誌の取材依頼を受けて行ったのがBMWドライバートレーニングとの出会いです。凄く興味深いことをやっていて、従来「急ブレーキはいけません」と教えるのに、急ブレーキを教えたり、スキッドパッドでお尻振って走るとか、ハンドルの回し方も従来と違う。それが、僕の方式とピッタリ合ったんです。すごくいいと思ってBMWの広報に「長年タイヤテストやっているけどタイヤの理論と合っていて納得がいくし、正しいと思う。もっと日本でも広めたほうがいい」って言ったら「じゃあ手伝ってくれ」という話になって、ドイツに2週間1人でインストラクターの研修に行ったんです。それで88年にインナー向け、89年から一般向けに本格開講し、チーフインストラクターになって今年で18年目ですね。 ドイツでは76年から始まっていますが、70年代に交通事故死者が増えた時「メーカーは車を提供するだけではなく運転というソフトウェアも提供し、どう操れば安全かを教えるべきだ」と始めたもので、そのセオリーはドイツの軍とか警察といった国家機関のドライバー教育にも使われています。 上手い運転とは。 日本で一番いけないなと思うのは、トラックやタクシーなどプロドライバーほど自分勝手な運転をしていることですね。下手な人とか道を間違えた人に対して、ホーン鳴らしたり、意地悪したり、あおったりするわけですよ。ドイツでは免許をとる時に「トラックドライバーのような運転をしなさい」と教えるんです。法律をきちんと守って走る、そういう運転をトラックドライバーがしているんです。日本では初心者マークや高齢者運転標識などをつけないといけないんですが、それもおかしいんですよ。世界的にもありません。弱者を守る意識が低く、自分だけスイスイ走るのがベテランドライバーの走り方だみたいな傾向は自動車文化度が低いと思うんですよね。 上手い運転っていうのはスムーズとか速いとか事故を起こさないとかいろんな要素があると思うんですけど、人が失敗や間違いをしても事故にならないような運転ができることだと思います。例えば高速道路の渋滞なら、すぐに減速を始めて前を広く空けておく。自分の後ろに3台ぐらい車が繋がってきたら最後尾につけば、後ろの人が急ブレーキをすることもないし、万一突っ込んできても回避できるんですよ。そういうマージンをとった運転ですね。 僕自身は「運転するのが好き」というだけなんですが、自分で運転するのが好きだから、人にも良い運転をして欲しいと思って「こういうふうに運転すると車はこうなるよ」とか「こう運転すると気持ちいいよ」とか啓蒙活動をしているんです。これからもそういうことを広めていきたいし、運転するのが好きな自分の使命かなと思いますね。
女性モータージャーナリストとして雑誌やwebに月間30本近く原稿をこなしながら、 ラジオ、テレビ、そして国土交通省の委員など多方面で活躍されている竹岡 圭氏。 普通のOLからモータージャーナリストへと転身されたという。 今回はそんな竹岡氏にクルマの世界に飛び込んだ経緯などをうかがった。 バイトでの出会いが転機に。
私は短大を卒業して不動産会社に就職し、普通にOLをやってました。ところが、その会社が崩壊して最後の方は4ケ月も給料が出なくてそれで辞めたんですが、収入はなくなるし仕事を探しながらバイトする状態。時間だけはできたので、免許を取りに行き始めたのもその時でした。 ある日、友人からきたバイトがドライビングビデオのパッケージ用写真の生徒役モデル。撮影現場に行って紹介された講師が日下部保雄さんだったんです。クルマの世界は何も知らないし、日下部さんのことも全然知りませんでした(笑)。それがクルマの世界に入るキッカケになるとは、その時は夢にも思いませんでしたね。 3ケ月くらい後、日下部さんからバイト依頼の電話をいただいたんです。モータースポーツ関係の会社プロスペックを立ち上げられた年だったんですね。エビスサーキットでイベントの手伝いをして、その足でN1耐久開催中のSUGOまで連れて行かれました。クルマのイベントもレースを見るのも全く初めて。凄い世界だけど面白そうだとは感じました。後で聞くと、翌年にタレントの酒井法子さんのレーシングチーム運営が決まり女性スタッフを探していて、そのテストだったんですね。それまで何人かサーキットに連れて行ったようですけど、ピットは熱いし寒いし油臭いしでダメだったみたい。私は小さな頃、工事車輌メーカーの社宅で育ち、いつも身近に油の臭いがあったので懐かしく感じたくらいで、全然抵抗が無かったんです。それで、大丈夫と思われたんでしょう(笑)、「社員に」というお話しがあったんです。実は、音響メーカーの仕事が決まっていたんですが、クルマの世界が面白そうだと思ったのと、免許が取れたら会社でクルマを提供してくれるっていうのも魅力で(笑)社員になったんです。
自分で動くしかない。 日下部さんの会社は当時はレーシングチームのマネージメントと走行会の運営などをやっていて、私もそのサポートと会計をやるんですが、会社に入っていきなり1月に鈴鹿のスーパー耐久。その時がもう“のりピーハウスレーシングチーム”で、人はいっぱい来るし大変だったんですよ。現場でも何をしていいかわからなくて、最初の時にあまりにも寒かったので降りてきたドライバーに暖かい飲み物を出したら「暑いんだから冷たいものが飲みたいに決まってるじゃねーか!」ってすごく怒られて。乗ったことないからどれぐらい暑いかわからないわけ。先を読んで動かないといけないのに、何していいかまったくわかりませんでした。 うちはのりピーチームだったけど、あくまでもプライベーターだったから、少数精鋭で人数も少なくてみんな自分のパートで忙しいし、私は私で自分で動くしかないんで、他のチームのマネージャーと仲良くなって、「この次はどうしたらいいんですか」「これどうしたらいいの」っていろいろ聞いて随分教えてもらいましたね。丸々1年やって、大体の流れがわかるようになりました。
人に恵まれて。 もともとレーサーとかに憧れてこの世界に入ったわけではなくて、当時はドライバーを誰も知らないし名前も知らないから、私にとってはみんな普通の人だったんです(笑)。却ってそれが仕事の面ではよかったのかもしれません。 「キャーかっこイイ」とか思っちゃうと、たぶん仕事にならなかったでしょうね(笑)。最初にやっていたのが耐久レースだったから、何か学園祭とか体育祭みたいなノリで、みんなで1つの目標に向かっていくのが面白くて結構ハマったんですよね。 レースは年間で7戦か8戦ぐらいで、あとは会社で運営する走行会とかも仕切っていたし、会計もやらないといけないし、マネージャーだけでなくいろいろと会社の仕事もしていましたね。 原稿を書く仕事は入社して一年経った頃からかな。雑誌社から「書いてみませんか」って言われて、それじゃやってみようかなと書いたのがオートキャンプの取材レポート。その後少しづついろいろなとこから仕事がくるようになり、それが今のモータージャーナリストに繋がってきました。 日下部さんとそのバイトに出会ったのがターニングポイントで、周りの人に恵まれて、マネージャーとしてやってこれたのも、今、レースにも出られるのもその人たちのおかげ。いろんな人の出会いにすごく恵まれたと思います。(以下次号)
クルマを楽しむ一貫として2006年はVWゴルフGTIカップにフル参戦。